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2011/02 横山八幡宮の石段と石柵

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 宮古町の郷社として藩政時代から明治・大正を経て信仰される横山八幡宮は現在も宮古を代表する神社として初詣参拝から厄払い七五三詣など、一年を通して多くの市民で賑わっている。横山八幡宮の創建に関しては『義経は生きていた』等の義経北行伝説関連の著書を執筆した佐々木勝三氏による『横山八幡宮記』(昭和39年・横山八幡宮社務所発行)がある。この本は神社創建に関わる歴史的部分を江戸時代・宝暦から明和期の歴史文学者、高橋子績が残した『横山八幡宮縁記』をベースとしており、詳しい創建は不明ながらも西海の異変を鎮めるため託宣で得た神歌を携え阿波国まで赴いた横山八幡宮神官や、時の一条天皇から都と同音の読みの宮古を地名として賜ったことを記している。その後には江戸末期頃、鍬ヶ崎町の近藤茂左衛門による神社復興に触れ、茂左衛門が京都に下り吉田神道にて神官の地位を獲得して帰郷したことを伝えている。これにより横山八幡宮は吉田神道の末席にその名が刻まれ、同時に社格が上がり近郷近在から多くの信仰を集めることになる。

 横山八幡宮記によれば文政6年(1823)に神輿の修理が行われ、この費用は宮古村、鍬ヶ崎村とその周辺からの寄進で行われ、この年以来毎年の大祭には大工、木挽、桶屋、紺屋もお供することになったとしている。しかしこの神輿は維新後の明治24年(1895)社殿・神輿蔵火災により焼失している。火災後は氏子総代の菊池長右衛門、宇都宮吉三郎、菊池理助、駒井庄七、鈴木長兵衛らが先頭になり浄財を集め復興し、火災の翌年の明治25年8月15日には新しい社が現在の位置に落成した。この復興に関する記録は境内南側の郷社再建碑に「郷社横山八幡宮詞堂既古斉殿亦罹災延及神輿一郷憂之有志醵資咸改造」と漢文調に記して、社が老朽化していたところに罹災し社及び神輿を焼失したことを明治二十五年八月二十五日付けで刻んでいる。その後大正元年(1912)9月23日に暴風雨により社殿屋根が破損し修理、次いで昭和16年(1941)には戦争気運が高まる中、拝殿を新築している。今月はそんな横山八幡宮復興や境内整備のために寄進された石段や石垣に刻まれた文字を調べてみた。

 最初に紹介するのは83段を境内まで直登する石段登り口の左右にある石塔だ。石塔には右に「奉」世話人花坂岩治、斉藤与□□、鈴木祐助、大正八年(1919)□□□□、左に「納」とあり同、細越□七、畠山庄助、摂待徳松、社司、鈴木豊四郎とある。このことからこの石段は大正8年の屋根改修の時に併せて奉納された石段であることがわかる。

 次の写真は直登する石段に対して南側から登る緩やかな通称・女坂の登り口にある石塔だ。坂は石段は幅広の階段になっており一端登り切ってから折り返すようにして境内へ続き合計で61段ある。碑はこの坂をコンクリートで階段に整備したのを記念して建てられたものだろう。銅製プレートには奉納、今泉源佐、昭和四十八年(1973)四月三十日竣工、宮古市黒田町一とある。

 次の写真は女坂を登り境内へ向かって反対側に折り返す小さな広場に設置された石の柵だ。この辺りが古い社があった所で、神輿蔵横には八幡宮附□(年代不明)の石碑がある。石柵は約20本の石柱で構成され親柱にそれぞれ、藤原町、菅野徳兵衛、藤原町、菅野ナホの名があり残りの石柱にもそれぞれ名前が刻まれている。

 最後の写真は旧社殿から新しく移転し開削された現在の境内の南側を取り囲む石柵の親柱だ。社殿に向かって左側の階段に沿った石柵には、上から氏子総代、花坂岩治、氏子総代、伊香彌七、氏子総代、坂下文平、同、大井祐太郎、同、小笠原理三、同、倉部外一郎、同、坂下平□、石工、田中政吉、社司、山根正三の名があり、右側の親柱に昭和十八年(1943)八月十五日の年号と、その他の柱にそれぞれ名前が刻まれている。

 横山八幡宮の氏子は近代宮古の経済を担った名士らの名が連なり、この神社が絶大な信仰と経済に支えられてきたことが伺える。また、この神社の神官は維新後、明治期は大畑栄次郎、大正期は鈴木豊四郎、昭和初期は山根正三、戦後は花坂幸男を経て現在は花坂直行氏が務める。

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