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2011/01 宮古湾対岸 堀内・小堀内の石碑順禮

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 戦前から戦後の昭和40年あたりまで堀内から重茂に抜ける峠付近の北側に住友金属関係の鉱山があったという。そこでどんな鉱脈を掘っていたかは今となってはわからないが、その坑道は宮古湾の海底より深かったとも言われている。また、堀内地区を流れる沢には黄金淵の伝説もある。伝説の舞台となった時代は特定できないが、その昔、重茂の浜に流れ着いた一族が月山より西の麦尾曾利(むぎおそり)という所定住し集落を作ったという。一族は元来武士であったがこの地を開墾し漁業や塩炊きで生計をたて後に麦尾曾利の長者と呼ばれた。一族は軍資金として黄金を蓄えてひっそりと暮らしていたがその噂を聞きつけた畑地区の盗賊破法坊(はほうぼう)がその黄金を奪いにやってくる。長者は盗賊の追走を逃れ集落から馬で峠を越えて堀内に向かったが途中で追いつかれ持参していた黄金を深い淵に投げ入れ逃走し命をとりとめたという。追ってきた破法坊らは長者が黄金を投げ込んだ淵に潜り探したが黄金は見つからなかったという。その後、長者が黄金が投げ込んだという淵は黄金淵と呼ばれるようになる。盗賊事件があってから何年か後、旅の僧侶が峠を通り渕の底が光っていたと言ったので、村人たちが底をさらったが何も出でこなかったという。また、この地区には小金渕(こがねぶち)の姓を名乗る家もあり、長者の投げ込んだ黄金(こがね?)からこの名字が生まれたのでは?という説もある。

 田老と岩泉の境にある畑の大穴を根城に各地を荒らし回っていた盗賊の頭・破法坊は実在したかどうかは不確定だが、破法坊の捕り物を記した古文書があり、それによると一度目の捕り物が寛永19年(1642)で当時の宮古代官所代官・船越新左右衛門が破法坊一党に破れ退却、二度目にやはり後の宮古代官所代官・小本助兵衛が破法坊成敗に手柄を立てたと伝えられている。これらの記録は読み物的に書かれた節があり登場人物や時代設定で信憑性に欠ける。一方、黄金淵に黄金を投げ入れた麦尾曾利の長者も、江戸初期の寛文の頃(1596~1672)重茂半島の東海岸に武士の一団が漂着し、この武士の一団は下野国(しもつけのくに現・栃木県)から戦に敗れ落ち延び、宇都宮と名乗っていたと伝えられるが確たる証拠となるとやはり不確定なままだ。

 さて今回はそんな重茂半島の西側である堀内地区を中心に石碑や墓所を見て回った。最初の石碑は前述の黄金淵があったという沢の上流であり堀内・重茂を結ぶ旧道の峠にある恵比寿の石碑だ。石碑があるのは津軽石稲荷橋から重茂を経て山田町大沢で国道45号線に接続する県道41号線の峠だ。石碑は旧道にあるため県道から北に分け入った林の中をしばらく歩く。石碑は釣り竿を持って立つ恵比寿が浮き彫りになった珍しい意匠で、右に文化十三年(1816)□□□□、左に願主・阿□兵□とある。

 次の石碑は堀内から赤前方面に向かった小堀内との旧道の峠にある石碑だ。石碑は中央に薬師山、左に村□□とあるだけで年代はない。この石碑は現在の堀内・小堀内地区の新墓所の登り口に置かれているが当初は両村との峠道にあり、おそらくその付近に当時は湧き水があってその水を護り、同時に道標としての役割もはたしていたものだろう。

 次の石碑は小堀内と隣の集落、釜ヶ沢を結ぶ旧道沿いの石碑群の中にある。石碑は中央に汝是畜生帰依三宝・発菩提心霊犬供養塔、右側面に文化十二亥(1815)とある。碑文から犬などの動物の霊を供養するために建てられた慰霊碑であり、狩猟などに使われた猟犬を弔ったものかも知れない。

 最後の石碑は小堀内と堀内を結ぶ現在の県道41号線沿いにある金比羅の石碑だ。石碑は中央に金比羅宮、右に大正元年(1912)左に十月十日・小堀内・六兵衛とある。現在県道は海沿いを走っているが、この石碑が建立された当時、各集落を結ぶ街道は各部落の山側を通っていたと思われる。おそらく石碑は海上安全祈願で陸から海を隔て数メートル離れた岩場に建立したのだろうが、現在は海岸線が埋められ道路になったため石碑がある岩場は陸続きとなっている。なお、この石碑がある海岸線は宮古湾の対岸であり宮古サーモンハーフマラソンの白浜折り返しの公認コースとなっている。

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