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2010/10 痛んだモロゴスで蕁麻疹

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 今月は台風シーズンでもあるし、昭和40年代、僕が住んでいた水害常習地区・小山田あけぼの団地の話をしよう。あけぼの団地は現在の宮古市福祉センターがある付近にあったモルタル二階建・4世帯の市営住宅だ。そんな建物が15棟ほどと三階建12世帯2棟、平屋4世帯4棟程度の団地だった。モルタル二階建はそれぞれ黄色、水色。ピンク、草色に吹き付けされていて6畳+台所トイレ、二階は4.5畳に3畳ほどの狭い住宅だった。当時ピークでどれぐらいの人が住んでいたのかは判らないがかなりの人が住んでいたように思う。僕が住んでいたのは地区集会場が隣接した10号棟で真向かいはブランコや砂場がある公園だった。団地(二階建)には風呂がなく、電話がある家は一軒のみ、「ミセヤ/店・雑貨屋」も一軒だけと不便ではあったが当時はそれが「アダリメー/当たり前」だったので苦にはならなかった。しかし、そんな平和なあけぼの団地は毎年この季節、台風に伴った集中豪雨によって地獄と化すのであった。

 あの日、太平洋上の台風が北へ向かっていることなどどこ吹く風の如く、さわやかな秋晴れであった。僕の家には親戚の「Mオンツァン(仮称)/叔父さん」が午後から遊びにきていた。その日「Mオンツァン」は僕のオヤジが非番なので「サゲコ/酒」を持参で飲みにきていたのであった。夕方になってあけぼの団地には「マヅヤマ/松山地区」の「オッパヤン/おばちゃん」が茹でた「トーキミ/もろこし」をリアカーで売りにきた。実はその「トーキミ」、午前中にも売りにきていて、そのまま「ミヤゴ/宮古市街」まで行って売り歩き、その残りを格安で売っているのだった。賞味期限ギリの食品を見切販売する今のスーパーと同じ売り方だ。朝「ノッコラド/大量に」茹でて売り捌いた残りの「トーキミ」にはハエが飛び交うザルの中に20本ほど残っていた。「オッパヤン」は3本で50円で「ヨゴゼンス/よろしいです」「オモゼンセ/お持ち下さい」と笑う。「Mオンツァン」はしばし考えたようだったが「ホンダラ、6本、ケドガンセ/それなら6本ください」と100円を支払うと「アメッタンデネーベーネ/痛んでるんじゃないでしょうね」と牽制する。実際、真夏ではないにしてもリヤカーにのせて一日中陽に晒したのだ、賞味期限はとうに過ぎているであろう。すると「オッパヤン」は「ナーニ、ヤイデケーバ、デーゾブデゴゼンス/なーに多少痛んでいても焼けば大丈夫です」と言って「ハイト、オマケブン/はい、おまけ」と言って僕に「トーキミ」を一本余計に手渡した。

 夕方になって「Mオンツァン」は七輪に炭を起こし狭い庭先で買った「トーキミ」を焼きはじめた。しょう油が焼ける香ばしい「カマリッコ/匂い」が漂い僕の腹の虫は啼きまくっていた。「Mオンツァン」とオヤジは相撲中継が始まる頃には「モッキリ/盛りきり・コップ酒」を「ヤツケデ/飲んで」出来上がっていた。僕も焼けた「トーキミ」に「カブヅイデ/かじりついて」いつになく二本も食べてしまった。豪快に笑う「Mオンツァン」がきたことにより父、母、祖母、僕の4人家族の家はいつになく賑やかな夕食となったようだった。

 陽が落ちた頃から雨が降りはじめた。「フロサイッテコー/銭湯に行ってこい」と言われたが雨脚も強くなってきたので却下となった。午後八時も過ぎたころ「Mオンツァン」は「イイクレー/たっぷりと」飲んで自転車で帰って行った。見送りのため外に出たら道路は水浸しで「セギ/堰・側溝」から水が溢れていた。台風はすでに東北地方に上陸しており雨だけでなく風も強くなっていた。九時過ぎになり同じ団地内に住むオヤジの同僚がやってきてこれから出勤するという。オヤジは酒の抜けぬまま、と言うより酔ったままで「モヨッテ/仕度して」カッパをきて出て行った。

 夜半過ぎ、ただならぬ気配に目が覚めて下の部屋へ降りたら、玄関でいつも銭湯に行くとき履いてゆく「ツッカゲ/サンダル」がプカプカ浮かんでいた。居間では母親と隣の家の人が手慣れた手際で畳を起こして押入に積んでその上にテレビが乗っていた。そしてあっと言う間に僕の家は水に浸かった。町内会の役員の人が「カイチュウデンキ/懐中電灯」を手に腰まで水に浸かって「アゲガダガ、マンチョーダースケー、モットデッカラネ/明け方が宮古湾の満潮だから水かさはもっと上がるからね」と告げてゆく。しかし、あけぼの団地の住人は水害慣れしているからさほどビビらない。僕は明日学校が休みになればいいなと思うのだった。

 事件は翌朝起こった。集中豪雨による水害のパニックもあったせいか僕は熱が出た。そして僕の身体には十円玉のような「ズンマスン/蕁麻疹」が全身に出て腕などは昨夜食べた「トーキミ」のようになってしまった。一軒しかない電話のある家までゴムボートで行きタクシーに電話して、またゴムボートで堤防まで運んでもらい後藤医院へ。食あたりであった。注射一本で「ズンマスン」は消えた。午後からは昨夜の雨がウソのように「ガリテン/晴天」となった。閉伊川の水位はまだ高いままなのであけぼの団地には泥水が溜まって海のようになっている。水害発生から24時間近く経っており、コーヒー牛乳のような泥水には幾人のもの「ソンベン/小便」が混じり「アップークッター/水没した」便槽からは汚物も流れている。しかし子供らは泥水を「コイデアルッテ/かいで歩き」入江のようになった団地の景色に歓声をあげていた。その後、泥水が「ヒケデカラ/引いてから」居間に残った泥んこを掻き出し、湿った床にDDTを散布。軒下には昨夜「トーキミ」を焼いた七輪が転がっていた。以来、僕が「トーキミ」を食べなくなったのは言うまでもない。ちなみに畳を敷いて食事が出来るようになったのは十月の半ばを過ぎた頃だった。こうして毎年、ラサの仮橋(ゆらゆら橋)が流され、水害常習地区あけぼの団地の台風シーズンは過ぎてゆくのだった。

 最近、宮古には大きな台風はきていないが、災害と借金取りはいつか必ずやって来るもの。その時になって「マッケーサネーヨーニ/慌てないよう」災害準備は怠らないようにしましょう。

懐かしい宮古風俗辞典

すみのげぇー

新築の建前(棟上げ)や家移りの際に行われるその家の繁盛を願って行われる伝統行事

 近年はどこぞの工場でユニット生産した部屋パーツを積み重ねるようにして家を建てるため、昔のように「タデメー/建前」の神事をしなくなりました。それにくらべ農村部などの昔の家は、持山から切り出した木材で軽く二百年は持ちこたえる強度がある家を建てたので、家を新築し新たに住むということは「イドゴマーリ/従兄弟親戚」隣人ご近所、そして神仏の障りがないよう最善をつくしました。そんな新築の「タデメー」で「スミノゲェー」という神事が行われます。これは建築中の家の周りにある「コッパ/木端」を使って簡易の鍋で炊飯し「オゲーコ/おかゆ」を作り、これを親戚などの縁者の中から募った「ワゲーモン/若者」4人に食べさせるものです。4人は部屋の四隅で隅に向かって一斉に熱い「オゲーコ」を食べ、最初に食べ終わった者が残りの3人の箸を取り上げ、箸と「オゲーコ」をよそったヘラを天井裏に結びつけ家の守りとします。これはのんびり食事もできないぐらい忙しく繁盛する願いと、天井裏に祀った「コーセーサマ/金勢様・男根」(父)とヘラ(母)のセットで家の繁栄を願うものです。「スミノゲェー」のしきたりや意味づけは地域によって様々ですが家の安泰を願うことはどこも同じです。

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