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2010/08 鉄棒遊びと防空壕

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 70年代と言えば懐かしい昭和の匂いが「ノッコライェード/めいっぱい」詰まった伝説の時代だ。しかし1970年♪こんにちは、こんにちは世界の国から~と三波春男が歌った大阪万博に日本中がうかれ、万博会場でジローズが『戦争を知らない子供たち』を歌ってヒットを飛ばしたあの時代、ベトナム戦争は泥沼化の一途をたどっていたし、中近東は相変わらず不穏な情勢だった。濃厚な昭和の匂いが漂うあの時代、終戦からたった25年しか経っていないのに敗戦国日本は無理に過去を忘れるように、いや、過去から目を背けたいがためにひたすら経済活動に打ち込み、「ミンナステ/みんなで」生活水準の向上だけを願っていたのかも知れない。今月は先月に続いてそんな時代の話をしよう。

 学校の廊下や道ばたで友だちに会うと「オス!」と声を掛けた。すると相手は「メス!」と応え、こちらは「キス!」と返すと相手は「サス!」と応えお互いゲラゲラ笑った。男と女がキスをしてからなにやら、やらかすらしい…という下世話な話は「オドゴワラス/男の子」の格好の話題であり興味の共通項でもあった。当時、藤原小学校の三年生だった僕はやっと自転車の「テッパンナス/手放し運転」が出来るようになったばかりのさえない少年だった。 

 ある日、放課後校庭の「ハスコ/端」にある「テヅボーンドゴサ/鉄棒の所に」人だかりがしていたので行ってみたら、一番高い鉄棒に上級生がぶら下がって前後に反動をつけている。なんだアレ?と思い取り巻きに聞いたら今から「大車輪」をやるという。そう言われて見ていたら上級生の身体はグインと鉄棒を軸に真上まで上がり、一瞬止まったかのような状態を繰り返し鉄棒を軸に数回る。なるほどこれが大車輪と呼ばれる由縁かと見惚れていたら、上級生はあろうことか鉄棒から手を離して鉄棒のずっと先にトン!と着地した。突然のフィニッシュに見ていたみんなは「スゲー/凄い」「ナードヤンノ/どうやるの」「オラサモオセーデ/僕にも教えて」とやんやの喝采だった。上級生が去ってから同級生が「オラー、コーモリトビ、デギンガ/オレは蝙蝠跳びができるぞ」と鉄棒にぶら下がり逆上がりで足を鉄棒にかけて両手を離してぶら下がり振り子のように身体を揺らす。何度か目に折った足を伸ばし地面に着地する。すると続いて誰かが「オラモ、オラモ/オレもオレも」と鉄棒に群がる。あの頃は学校に遊具と呼ばれる色々なものがあって鉄棒もその一連として低学年用の低いものから飛び上がっても「トンヅガナイ/届かない」上級生用まであった。ちなみに女子は低学年用の低い鉄棒に上着を巻いてそこへ膝を掛けて、スカートをパンツの中に折り込んでから、自重を振り子にぐるぐる回る「スカートマーリ/スカート回り」という遊びをやっていた。あの頃それを男子がやると「オナゴメーコ/男女」とされたため回り方やコツなどの詳細は今でも不明のままだ。

 成長期の子供たちは運動神経の発育にも個体差があるため、遊びや運動にしても出来ることと出来ないことがあった。だから学年の中でたった一人だけが出来る「技」を持つと言うことは「オドゴワラス」の勲章でもあった。その中でも最高栄誉とされた技は「バクチュウ/バク宙・後ろ宙返り」だった。これができたら女子にはともかく「オドゴワラス」から見たらヒーローだった。僕の少年時代は体育の授業でマット運動というのがあって先生の「ピーパ/笛」に合わせてマットの上で前転したり、跳び箱を跳んでから前転したりしていた。そんな授業があったから、雨降りの日に講堂の用具置き場から臭いマットを出して各自技を出し合うのだった。「オラ、チジョウカイテン、デギンガ/おれは地上回転・倒立前転?ができるぞ」とか「クーチューカイテン、デギンガ/空中回転・とんぼ返り?できるぞ」と宣言し、密かに家で練習を積んできた技を皆の目の前で披露していた。しかし、僕は天性の運動オンチであり鉄棒もマット運動も大の苦手でこの世界で注目を浴びることはないなと確信していた。

 当時は町のあちこちに危険物が散乱していた。少年たちもそんな危険ゾーンが放つ異様な雰囲気に敏感で、絶対に怒られるのを承知で探検に挑むのだった。そんな危険ゾーンの代表が第二次大戦時に使われた「ボークーゴ/防空壕」だった。僕が住んでいた小山田は戦後の新興住宅街なのでそのようなものはなかったが、母方の「ウマレイェー/実家」がある「キューダデ/旧館」には数ヶ所の「ボークーゴ」があった。冒頭で書いた『戦争を知らない子供たち』そのものであった僕たちは「オマヅリ/お祭り」の夜店で売られる戦車や戦艦のプラモデルに熱狂し、お盆には落下傘花火で遊んでいたが、実際の生活に戦争の痕跡を見ると何とも言えない空気を感じた。たいがいの「ボークーゴ」は垣根のような戸で閉鎖されカギが掛かっており内部には入られないのだが、真っ暗な中を「ノゾゴッテ/覗いて」見ると怪しい興味が沸いたものだ。現在の築地の山の中腹や、佐原に登る45号線の登り口にあるガソリンスタンドの裏にもあった。そしてなんと景勝地・浄土ヶ浜レストハウスの裏手にもあった。いや、今もあるのかも知れない。

 戦争を体験したという昭和ひと桁の親たちが語る宮古空襲の話や、頭が悪いのは勉強したくても出来なかった戦争のせいなのだと「カツケデ/無理な理由にして」何かと言えば「オメンダズ/お前ら」は恵まれすぎてると言う人もいた。そうかと言えば誰が語ったか「ホッケデラ/本照寺」の石段の穴はグラマンの機銃照射の跡だとかと「ウソカダリ/嘘語り」に尾ひれがついて少年たちの興味をそそるのだった。

懐かしい宮古風俗辞典

つみつぐり

通常より過剰に苦労すること。文字的には「罪を作る」だが犯罪などを意味するものではない

 「ツミツグリ」は余計な苦労をしたという意味で、自分に対しては「ツミツグリスター/余計な苦労をした」、他人に対して苦労をさせてしまったような状態の時は「ツミツグリサセダガネー/苦労させてしまったね」という風に使います。宮古弁会話ではかなり頻繁に出てくる言葉でこれを使いこなせば立派な宮古人です。「ツミツグリ」で言う「罪」とは「カッパレー/盗み」や傷害などの犯罪とは関係なく、何かの動作や行動に対して通常より時間や労力がかかったという苦労を指しています。しかしながら、仏教など宗教的に言う滅罪の代償として現世や来世で苦労が課せられると考えれば「罪」=「苦」となります。このように大げさな表現で相手をねぎらったり、自らの苦労を強調するような使われ方や言い回しは意外と関西っぽい表現になっている。だからと言って宮古弁が京都や大阪の言葉の流れを汲んでいるわけではにのであしからず。人は生まれてしまえば、生きるためにたくさんものを消費し環境を破壊してゆきます。人生を流れ多くの人と出会っては「コリナス/懲りず」に無限の衝突を繰り返して泣いたり笑ったりします。まさに生きると言うことは罪を作る事であり「ツミツグリ」なんですね。あの世へ渡ってから反省することにします。

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