Miyape ban 01.jpg

2010/07 インスタント食品の思い出

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

 毎日が盆正月「ミデーナ/みたいな」豪勢な食生活が「アダリメー/当たり前」となった昨今、食べ物に対する幸せ感はひと昔前に比べ、ぐんと減った。僕の少年時代には運動会でしか食べられなかったいなり寿司や太巻きも今やスーパーの惣菜売り場に年中並んでいるし、夏の「オマヅリ/お祭り」で楽しみだった「ゴマモーヅ/ゴマダレのし餅」もいつだって食える。1個1円とか2個で1円の「アメコ/あめ玉」やキャラメルを慎重に選んで買っていた時代がウソのような飽食ぶりではないか。そんなわけで今月はそんな僕の少年時代の食べ物について思い出してみよう。

 売春禁止法が制定された昭和33年(1958)生まれの僕の時代は学校の帰り道に「ミセヤ/雑貨屋」で買い食いをしてはいけないことになっていた。そのくせ「エンペヅ/鉛筆・筆記用具」や「ケスゴム/消しゴム」は買っても咎められなかった。だが、お菓子やクジを売ってる「ミセヤ」でノートなどの文房具を売ってるから、腹を空かした育ち盛りの「ワラスガドー/子供ら」に「オガスー/お菓子」を買うなと言う方が土台無理だ。学校帰りに「ミセヤ」に寄っては店主によって故意に一等を抜かれた駄菓子のイカサマクジに夢中になり、無果汁・全糖の粉ジュースを粉のままストローで吸ってはむせたりして楽しんでいたものだ。

 昭和40年代前半、僕が通っていた藤原小学校は完全給食ではなかった。たしか一日おきに弁当だったと記憶している。あの頃の母親の作る弁当はどこも同じようなもので、最近のお母さんが作るようなハイカラなものではなく、「サギノバンゲェ/昨日晩」の夕飯の余りなど、とかく和風なオカズばかりだった。だからたまには弁当を持参せず、昼食時に先生の許可をもらい学校の近くでパンを買ったりした。当時の藤原小学校の子供たちにとって「パンコヤ/パン屋」といえば学校近くにあったパン工場のパンだった。この工場は市内の菓子店のパン工場で一般店舗ではなかったが入口で頼めば切った「カクパン/食パン」にジャムやクリームを塗って売ってくれた。僕はピーナッツクリームが好きでそれを頼むと家ではパンに塗ったら怒られるぐらい「ノッコラ/大量に」クリームが塗ってあり焼きたての「ヤーケー/柔らかい」パンと相まって最高の味だった。

 同じ時代に宮古小学校に通っていた人たちの話を聞くと、当時新町に工場があった「パンコヤ」日進堂で売っていたパンの耳のことを語る。当時、日進堂では調理して不要になったパンの耳を袋詰めにして売っていたらしく、その中からクリームやジャムが少しでも残った耳を見つけた時の幸せは今でも忘れれらないという。また、日進堂と言えば当時「フラワーパン」という独特の形状のパンを売っていた。これは半斤の山型パンを縦に細長く切り中心にクリームを塗ってそれを糊代わりに巻いたもので中心に赤や緑のゼリーが載っていた。値段の割に食べ応えがあり人気の一品だったようだ。その頃、市内にあった「パンコヤ/パン屋」はどこもオリジナルの「パンコ」を製造し直売卸をして「ミセヤ」に配達していたし、田老鉱山や国鉄物資部などへも積極的に配達していたようだ。

 さて、公害、米ぬか油、チクロなど人の身体を直撃する毒物が平気で使われていたあの時代、最も美味だったのがインスタントラーメンだろう。あの頃はラーメンのことを食堂でも中華そばとか支那そばと呼んでいて、当然の如くしょう油ベースであり塩だの味噌だのはなかった時代だ。そこへ出てきたのが「コナベッコ/小鍋」1丁で調理できるインスタント食品の王様・インスタントラーメンだった。その味はかなり化学的味で鼻に抜ける独特の香りと、まとわりつく油が相まってそれまで食べたことのなかったこの世の極楽を感じる味であった。僕の初インスタントラーメンはロケットラーメン(製造メーカー不明)だ。今でも子供がロケットにまたがり手をあげ小窓からは中の乾麺が見えるパッケージをおぼろげに覚えている。アニメ・オバQの小池さんが麺を入れた丼にお湯をかけて食べているチキンラーメンや今やベストセラーの明星チャルメラはこの後に登場している。とにかくこの時期はインスタントという言葉が商品キーワードで、コーヒー、おしるこ、ジュースの素をはじめ簡単に「コッツェーデ/作って」味は「ウンマグナクテモ/おいしくなくともお」それっぽい味ならよかった時代であった。とにかく薬で作った化学調味料100%で身体には極めて悪いが今まで知らなかった味で消費者を楽しませてくれたのは確かだ。ちなみに宮古で初の味噌ラーメン登場は昭和46(1971)年頃に駅前に登場した大型中華食堂・満貫食堂の鉢ラーメンである。

 マルハ(東洋水産)の魚肉ソーセージも忘れられない味だ。アニメ『ちびまるこちゃん』の歌(西城秀樹)「♪はいはいハムじゃない~」にもあるようにハムのような色と味だった。ケーシングされた先端の金具を歯で囓ってソーセージをぐるぐる回してちぎって皮を剥いた。いつも食べるのは15センチぐらいのソーセージだから、スーパーや肉屋で見る30センチもあるソーセージやサラミを見て、ああ一度食ってみたい…と憧れたりした。また、白く加工した魚肉を散りばめて極薄にスライスして断面を見せてパックした魚肉ハムもあった。そのハムを焼いて目玉焼きを添えたハムエッグは昭和40年代を象徴する羨望の朝食メニューだった。

 戦後、約10年、日本人が欲しがった平和の味は「甘さ」であった。そして次は手軽なインスタント食品に未来を求めた。しかしながら、それはまだ高嶺の花であり、子供たちは道ばたに咲くアカツメクサやニセアカシアの花をちぎってはわずかな蜜を舐めて楽しんでいた。そんな時代だった。

懐かしい宮古風俗辞典

ざんぞうぽうろぎ

冠婚葬祭やイベントなど事があらかた終わってから、不平不満や悪口を言うこと。

 冠婚葬祭やイベントはどんなに成功裡に事を運んでも100%の人を満足させるのは不可能なわけで、過半数以上の参加者がまずまずの出来だったと評価したなら、ヨシとしても「ブゾーホー/不調法」ではないとします。しかしながら、必ずそれをヨシとしない人がいるもので、参加者の労をねぎらうご苦労会で、あそこがいけなかった、ああすればよかったと終わった事を蒸し返す人がいるものです。  今更酔った勢いで終わったイベントの不行き届きを注意しても何の効果もなく同席している人が気まずい思いをするだけです。  古語辞典を調べると「ザンゾウ」とは漢字で「讒訴(ざんぞ)」と書いて不満を訴えることらしいです。「ポーロギ」は、豆を煎ったりする道具を「ほうろき」と言うらしいのですが、ここではおそらく衣服に付いたゴミや髪の毛などを叩き落とすような意味で使われる「ホーロギ」、「ホーローッテ/叩き落として」の方に近い意味で、まさしく不満や悪口を叩き落とすように言いまくるという意味になります。

表示
個人用ツール