Miyape ban 01.jpg

2010/06 公葬地の地蔵菩薩順禮

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

 近年は菩提寺とされる寺の敷地にある墓所に遺骨を納める形から、寺や宗派にとらわれず霊園などの近代的な公葬地に墓を建て先祖供養や新仏を供養する形態に移行している。墓の移動や転居、長年の貸与等にかかわるいざこざは寺側、檀家側とも言い分があり解決には時間がかかる。しかしながら、寺の敷地に墓を作る習慣がいつからあったのかと考えてみると、元来、寺と墓は別々に発達してきたのではないか?とも考えられる。そもそも一般人の死去に伴い石の墓を建てて埋葬したのはかなり新しい江戸中期後半から江戸末期であろう。その頃の宮古地方にはすでに曹洞宗の寺があり檀家制度のような形態をとっていたと思われる。また、その頃、人の生死と人口の増減を最も把握していたのも寺であり檀家制度=戸籍でもあった。言わば地域の寺の檀家になることはその村においてのひとつのステータスであり、ましてその敷地内に墓所を持つと言うことはその家の格の高さの表現でもあったことだろう。

 古来、人は死んで三十三回の供養を終えると仏はその家を護る先祖霊となり盆などの仏事ではなく正月の御歳神として家に迎えられるというのが日本の宗教観念の基本だ。そのため昔は死者を家の周りに埋葬した。これを屋敷墓地と呼び今でも農村部に行くと見られる。これをもう少し進化させたのが各地区の公葬地であろう。これは自宅傍に埋葬する土地がないというより、葬られた仏も地域の集合体であり未来永劫その地域を護るであろうという意味が込められている。またこれらの墓地は往々にして昔の村境であり、村への悪神、厄神の侵入を防ぐ塞ノ神として機能しているとも考えられる。寺であれ、旧村単位の公葬地であれ、時を経ればいくつもの仏が埋葬される。そのような場所には追善供養の石碑や地蔵菩薩などが建ち、その後、道路普請などで街道筋の西国塔なども集まってきて石碑群を形成する。今月はそんな旧村単位の墓地周辺の石碑群にある地蔵菩薩を巡ってみた。

 地蔵菩薩は釈迦尊入滅後、再来とされる弥勒菩薩がこの世に誕生するまでの仏尊空白期間に人々を救う菩薩として表現される。しかしながら民間信仰ではそのようなややこしい存在理由より、地獄の賽の河原で彷徨う子供を救ったり、生まれかわりと輪廻に関連する六道の鳥居で亡者を導く仏として信仰される。そのため公葬地の入口などに地蔵尊を建立することはそこに埋葬されたあらゆる死者の追善供養につながる。これに対し寺などに六地蔵を並べるのは地蔵信仰に加え寺や墓地が通常空間ではなく現世にありながら、あの世につながる異界であるという証しでもある。地蔵は右手に錫杖、左手に如意宝珠を持つ形で直立するがまれに半跏で表現されることもある。ちなみに宮古では蛸ノ浜町の九峰山・心公院の延命地蔵菩薩立像が市文化財指定になっている。

 さて最初の地蔵は高浜の高台にある公葬地にあるものだ。墓所入り口の旧引導場横にあり周辺には台座を失った地蔵尊、如意輪観音などが並んでいる。地蔵は半跏の形で表現され、年代は台座の風化から判読できないが、石像と台座の石質が異なることから墓地整備でいくつかの石仏が組み替えられた可能性もある。次の地蔵は津軽石新町の稲荷神社下、山田線馬越踏切脇の石碑群にある。現在は国道45号線から津軽石に入るが、昔の旧道は法の脇地区から峠を越えて津軽石村に入っていたので、元来、この場所は津軽石川の川原であり村境でもあったためここに地蔵尊が建てられたのであろう。台座側面左に天保二年(1831)とあり前面に念仏供養、おりき、おとめ、おりお、おこよなど9名の連名がある。次の地蔵は花輪中学校校門脇の石碑群の中にある。右側面に天保十四卯十月五日(1843)と年号がある。この石碑群のある山道を200メートルほど登ると旧花輪村の公葬地がある。最後の石碑は長沢地区、旧地名寺沢の石碑群の中にある。右側面に嘉永元年八月□日(1848)、左側面に寺沢、横須賀、若者中とある。この付近は数年前都市計画で道路整備がなされ路傍の石碑十数体が一ヵ所に集められている。また、この地にはその昔、庵寺のような宗教施設がありそれが寺沢という地名の起こりとされるが、現在庵寺があった場所は特定できない。

表示
個人用ツール