Miyape ban 01.jpg

2010/05 和井内地区石碑順禮

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

 先月初旬、待望の『宮古市の石碑(いしぶみ)改訂版』(宮古市教育委員会刊)が刊行された。これは昭和59年に刊行された『宮古市の石碑』に掲載されている石碑の再調査と、その後合併した旧新里村、田老町の石碑をまとめたもので数年前から拓本による読み取りや実地調査などを踏まえ、このほど再編集されたものだ。この冊子は宮古市教育委員会が資料としてまとめられたもので書店などでは販売されていないが興味がある人は図書館で閲覧可能だ。

 さて、今月は石碑巡りにとって強力な水先案内であり虎の巻となるこの冊子を参照に和井内地区の石碑を訪ね歩いた。和井内地区は旧新里村管内でも比較的石碑が多く、ユニークで変わったものや、閉伊街道をはじめ江戸後期の浜街道の開削者・牧庵鞭牛和尚の生誕地であり加えて鞭牛も務めたという遠洞山・宝鏡院もあり鞭牛関係の石碑や伝説も多い。また、このコーナーでは昨年7月にも和井内から安庭沢へ入る入口で刈屋川と安庭沢が合流する神山地区の石碑群を紹介しているが今回は国道340号線沿いの石碑群や、宝鏡院を経て平片、戸塚・岩穴地区へ向かう分かれ道の石碑群などで石碑を調べた。

 最初の石碑は国道340線バイパスを折れて旧道に入り刈屋川に架かる橋を越え、旧和井内中学校付近の井佐内沢と刈屋川が合流する場所にある石碑群の中にあるものだ。中央に聖德皇太子、右に推古天皇廿九年辛巳(かのとみ)二月廿二日萌、明治廿二年迄千二百六十九年、左に明治廿二年(1889)二月廿二日建立、當村・古館とある。聖徳太子は600年代に蘇我氏・物部氏が対立する中、蘇我氏とともに仏教をはじめとした大陸文化を取り入れ、天皇による中央政権の樹立に貢献、遣隋使を派遣し大陸の進んだ文化や制度を日本に輸入した人物だ。聖徳太子の生誕・没年は諸説あり飛鳥時代の629年という説から逆算すると石碑を建立した明治22年で、石碑の記述通り没後1269年になる。 俗に聖徳太子は大阪の四天王寺や奈良の法隆寺などの大規模な寺院建築の責任者であったことから大工をはじめ多くの職人たちに信仰され、江戸から明治にかけて太子の忌日とされる2月22日 (旧暦)を太子講とし、大工をはじめ職人の節句として祝うようになった。この石碑も2月22日に建立されていることから和井内地区の建築・木材関係を営んでいたと思われる古館という人が建てたものだろう。

 次の石碑は井佐内沢石碑群から50メートルほど進んだ国道沿いの斜面にある。中央に独特の具象化した文字で恵燈大師、右に大正十三年(1924)三月二十五日、左に四百二十七季忌とあり下部に木村兼松、遠洞要吉ら計9名の名がある。

 恵燈大師大師は室町時代の浄土真宗の僧、蓮如の別称で、明治15年(1882)に明治天皇より慧燈大師の諡を追贈されている。蓮如は僧でありながら生涯5回結婚しの27名の子を残したことは有名で、室町時代の明応8年(1499)没している。石碑には427季忌とあるが建立した大正13年から逆算すると425年で石碑の427季忌とはなぜか二年の誤差がある。

 次の石碑は刈屋川・井佐内沢合流点から上流の次の小さな沢が合流する地点に一基のみ建立されたものだ。碑は方形の太い花崗岩で上部左右に梵字があり、中央に奉庚申供養石塔墓・施主敬白とある。左右下部に年代などの文字らしき彫りがあるようだが、石の材質と風化が激しく判読できない。梵字はカーン、アーンクなどの不動明王をはじめとした明王系のものと思われる。庚申信仰で広く崇められるのは青面金剛という仏尊だが、これは庚申信仰のような民間信仰の中にある仏で仏教的には正式な仏ではないため梵字は割り振られていない。しかしながら庚申講では掛け軸などに描かれた青面金剛を仏尊とし信仰する。

 最後の石碑は和井内から源兵衛平方面へ向かい、平片の滝を過ぎて和井内五番地区の戸塚地区・岩穴の分かれ道にある追分道標だ。碑には右に中北道、右ハ・とつかミち、左に岩泉道、左ハ・ゆわあなミちとある。周辺には山の神や南無阿弥陀仏塔などの石碑群がありこの地点が古来から目印であったことが伺える。ちなみに戸塚は昔から狩猟が盛んで現在も現役のマタギが多い地区だ。

表示
個人用ツール