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2010/04 小山田地区石碑順禮

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 灯台もと暗し…ではないが、編集部のある松山地区や、取材や用足しで編集部と町中を一日に何度も往復する度に通過する千徳や小山田地区の石碑や神社は意外と手薄だ。いつも車を運転しながら眺めて目視確認はしているがいざ車を止めてカメラとメモ帳を持って調べるまでには至らない。人もたまにしか通らない山奥の秘境の峠に佇む石碑も、町中の交通量が多い道ばたに佇む石碑も、人が後世に何かを伝えたくて残した同じ石碑なのに、なぜかガソリンを消費して奥地を調べてしまう。そんな反省と春のどか雪の影響もあって今月は編集部から目と鼻の先でもある小山田地区の石碑を巡ってみた。

 まず最初の石碑はゴミ最終処分場へ登る道と堤ヶ丘団地が交差し松山・花輪方面へ向かう変則交差点にある石碑だ。碑は中央に災害復旧工事記念とあり、右に閉伊川筋河川堤防(護岸)昭和廿五年(1950)十二月起立、昭和廿六年十月設工、左に工事施行岩手縣宮古土木事務所、工事請負、高常建設株式会社、施行区間、自宮古市藤原、至同小山田超乙二粁十二米とある。若干の崩した旧字と単位などの専門用語で意外と難解だが、藤原の旧宮古水産高校カッター部艇庫付近から、石碑のある小山田まで閉伊川増水に対する堤防工事を行ったことが記されている。堤防は小山田橋付近から何度となく改良され道幅も広くなっているが、旧ラサ工業正面玄関付近から藤原までの堤防は昔のままの面影が残っており今でも往時を偲ぶ風景だ。また、石碑のある付近は閉伊川第一堰堤付近で、昔は赤土の沼という意味で俗称で「赤沼」とよばれた深みがあった。閉伊川はこの付近で大きく蛇行し淀みは渦が巻いて危険な場所だった。

 次の石碑は小山田の薬師神社登り口の石碑群の中にあるものだ。中央に故陸軍歩兵一等卒岩澤寅之助碑、左に小山田邑若者中建立とある。この碑は小山田出身の日露戦争戦没者である岩澤という人を讃えた顕彰碑で、裏面に漢文調の説明がある。それによると明治31年(1898)に歩兵31連隊で一等兵となり同34年に除隊したが、明治37年(1904)の日露戦争に召集され、同38年清国盛京省(現・遼寧省)蘇麻□の激戦で被弾、斃死、その功績で勲八等旭日章を賜ったとある。

 次の石碑は薬師神社境内にあるもので市内の石碑の中でもかなり古いものだ。石碑上部には梵字で表記された千手観音、観音、勢至菩薩の三尊仏があり五輪塔などの東側の結界とする梵字キャ・カ・ラ・バ・アがありその下部に碑文がある。碑文は俗界平等利益…などの文字が並ぶが彫りが浅いうえ風化も激しくほとんど読み取れない。碑文左には宝永三(1706)丙戌七月十六日の年号がある。この石碑は数年前の梵字のある石碑シリーズでも取り上げており詳しく知りたい場合はバックナンバー(2000年6月号)を参照してほしい。

 小山田薬師神社は宮古市指定文化財の毘沙門天立像、湯点釜、薬師堂厨子などがある文化財スポットでもある。境内の石碑の年代も古く歴史のある神社だが、江戸時代まで神仏混合の信仰を主としていたため明治の神仏分離令では薬師如来が本尊のため御神体などが一端里に流れるなどの経緯を経て再び神社として再建されたものだろう。再建後は小山田の村社としてまた、目の神様として信仰を集めた。

 最後の石碑は小山田公葬地の石碑群にあるものだ。石碑は上部に中供養、中心に奉納大乗妙典六十六部とあり、右に文政七年(1824)申年小山田村、十王堂、左に三尊建立、阿州阿波郡、西須賀村、世話人、行者、源助とある。六十六部とは別名六部とも呼ばれた宗教者で、全国66ヵ所を巡礼しひとつの国の一ヵ所に法華経を一部ずつ納めるため諸国を流浪した。その出で立ちは山伏のような姿で背中には大きな厨子のような笈を背負っており、これらが宮古で言う経文を唱えて各家から施しを得たという不気味な宗教者「がんもんも」であろう。経緯を推測すると、江戸末期の文政の時代、小山田村の有力者の元に阿州阿波郡(徳島県)からきた宗教者がやってきて法華経の教典を納めたいと懇願し願いが叶ったのであろう。年表から見ると文政7年は凶作のあげく大雨の年で8月13日は戸川(閉伊川)が氾濫し上流部では多くの民家が流失、牛伏では男女5人が溺死している。経典はそれらを鎮めるためであったかも知れない。

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