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2010/03 白浜地区石碑順禮

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 中世の頃(室町~戦国時代)千徳氏(一戸氏)が代替わりして分派してゆく際に、津軽石・豊間根方面を津軽石氏(津軽石十郎信濃)に、八木沢・磯鶏・重茂を八木沢氏(弥義澤左馬之助)に分け与えたとしている。

 時代は下り江戸末期頃になると八木沢村、磯鶏村、重茂村等は枝村として別々の自治を持つようになり、そのまま維新を迎え村々は完全に独立した行政自治となる。明治中期の磯鶏村は藤原との境であった石崎から旧磯鶏村、八木沢村を含め枝村として小山田、高浜、金浜を統治し西は花輪村に、南は津軽石村に、そして宮古湾をはさんで重茂村と接していた。重茂村は元来八木沢氏の所領で、音部村が津軽石氏の所領であったが南部氏の時代には半島の一部を除いたほとんどが宮古代官所の所轄となり維新を迎えた。磯鶏村では宮古湾をはさんで対岸の白浜地区を枝村として漁業の便宜を図っていた。対岸に飛び地があるということは湾内において直線状に境界線を主張できるわけで建網漁業で優位に立てた。白浜からは重音部村を経由して重茂村へ通じる道が古くから拓け往来も多かった。そのため磯鶏村からは対岸へ渡し船が出ておりこの船を対岸から大声で呼んだことから「呼ばり浜」の名が今も残る(現ヨットハーバー付近)

 白浜は磯鶏村の飛び地として磯鶏村に属したが独自の行政理念から昭和2年(1927)、市街地への定期巡航船「白浜丸」を竣工、戦後には学区を愛宕に移すことになる。以後約60年にわたり白浜丸は重茂半島各部落に郵便や食料品を届ける重要な足であったが平成2年(1990)老朽化により第二白浜丸を最後に廃船。その後県北バスが観光船で航路を引き継いだが平成13年(2001)愛宕中学校廃校に伴い愛宕小学校白浜分校も廃校したことから、同時に航路も廃止となり白浜分校は赤前小学校に統合された。今月はそんな白浜の石碑を巡り歩いてみた。

 最初の石碑は愛宕小学校白浜分校跡にある石碑だ。この碑は元の白浜分校敷地内にあるもので表には白浜小学校が独立校だった時代の校歌の歌詞が刻まれ、裏には昭和61(1986)年9月吉日の日付と宮古市立愛宕小学校白浜分校創立百周年を記念して建立された経緯が記され、佐藤善一・識、鈴木祐一・施工の名がある。歌詞は三番まであるが個人的に二番が印象的で「明治の御代に開かれて、ひいじいさんも手にとった、小石もあろうこの庭で、今日は我等が遊ぶのだ」(二番歌詞より・作詞佐藤善一、作曲千葉了道)とある。この校歌は白浜小学校として独立した昭和25年(1950)に制定され、昭和42年(1967)に白浜分校となるまで生徒らに愛唱されたものだという。現在この校歌のメロディーはまだ知る人がいると思うので歌える人がいるうちに保存しておきたいものだ。

 次の石碑は白浜~重茂街道の石碑群にあるもので海難犠牲者の供養塔だ。中央には海運丸乗員供養塔、右に大正十年(1921)旧二月二十五日、左に白浜区一同建立とあり、下部に浜田伊勢吉、同久松、同寅次郎、同喜八、小鯖栄次郎、同勢次郎、中村儀、工藤寅次、関川栄、戸塚甚、佐々木敬の連名がある。碑にある海運丸が宮古船籍の船だったのか、この時期よくある民間徴用の輸送船舶で宮古以外の場所で海難に遭ったかは不明だが、供養された人物の名字は白浜にゆかりの名が多く、海運丸という船は白浜に密接に関係していたと推測される。また建立年月日から10年ほどを宮古市年表で遡って調べると当時は発動汽船が発展途上であり時化によるかなりの海難事故があったことがわかる。海運丸もそんな初歩の発動汽船だったと考えられる。

 次の石碑は白浜から月山へ向かう自然遊歩道入口の白山神社脇にある石碑だ。碑は中央に牛頭天皇、右に六月十七日(年代不明)、左に法経人、村中、刈屋ヱキとある。社は近年改修されたらしい中規模のもので急傾斜のわずかな敷地に西向きで建っている。地区民によると祭礼は毎年6月の第三日曜日だという。  最後の石碑は重茂街道沿いにある白山神社境内の石碑群の中にあるものだ。碑は中央に八大龍王、右に大正十四(1925)年、旧五月十七日、左に下川市太郎建立とある。八大龍王は龍神、竜宮、水神、滝信仰などが合体した水に関係する信仰で主に漁業関係に厚く信仰される。

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