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2010/02 方言は子々孫々と語り継がれた語源文化

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 日本各地の方言や訛りを使って話をする某有名タレントが「東北弁は言葉の最後に〈コ〉を付ければみんなそれらしくなる」などと強引な事を言ったりしているのを見ると「ウスペラケーヤローダ/上滑りの思考しかない奴」と思ってしまう。某タレントはその意見を実証するかのように例えば岩手なら馬は「ウマッコ」、鳥は「トリッコ」と言うと胸をはる。それを聴いていたゲストの女の子が「じゃぁリンゴやイチゴは?」と聞くと「そりゃぁ当然、リンゴッコとイチゴッコでしょうが!」と言い切る。そんな馬鹿な、どこの岩手県人がそんな言葉を使うのだ?リンゴはリンゴ、イチゴはイチゴだ。話を盛り上げるためとは言え、岩手弁は語尾に「コ」が付くと半ば断定されたのではたまったものではない。こうやって東北弁はいつまでも誤解され続けるんだろなぁと思う。

 方言はスマートな語り口の共通語に較べ確かに「オガスケネー/面白い」語句や奇想天外な意味をもった言葉も多く、はじめて聞いた人は「タマゲダリ/びっくりしたり」吹き出したりもする。しかしそれは共通語という極めて狭い日本語を基準とした「アヅモソッケモネー/無味で特徴がない」見解であり、方言を聞いてそれが田舎臭く時代遅れで「オモッセー/面白い」と笑っている方が浅はかな「コバガモン/小馬鹿者」であると知るべきであろう。日本に49の都道府県があり各県に細分化された風土を持った地域があり、そこで暮らす人の数ほど方言があるだろう。それらはその土地の歴史であり子々孫々と語り継がれた語源文化なのだ。アメリカはヨーロッパに較べ歴史がないのさ、と笑う前に日本国の東京だって江戸期の前はだだ広い「ノッパラ/野原」であり文化的にもさほど歴史がないことを知ろう。それに較べ近年何かと「イキポグ/勢いづく」おとなりの国々は数千年の歴史があるという。さぞかし日本など比にならぬほどの方言があることだろう。

 さて、今月は冒頭でも触れた東北弁であり岩手弁の特徴とされる「コ」について考察してみよう。確かに某タレントが語るように岩手弁の表現には語尾に「コ」が付くものが多い。「サゲッコ/酒」「オジャコ/お茶」「ユッコ/湯」「ミツコ/水」「アメッコ/飴玉」などがそれだ。これらは名詞の語尾に「コ」を追加することでそれが愛しい物であり自分にとって切実に必要なため、呼び捨てるような乱暴な表現ができない大切な物であるという意味がある。「サゲノンベー/酒飲み」にとって酒は命の次に大切だし、仕事の合間にいただく一服の時の「オジャコ」のありがたみは「コデーラレネー/何者にも代え難い」ものだ。

 次の「コ」は「サラコ/皿」「ビンコ/瓶」「フタコ/蓋」「ナベコ/鍋」などの一群だ。これらは某タレントが言うように様々な名詞にとにかく「コ」を付ければ方言として成立するように見え、この法則に気付くと東北弁や岩手弁の成り立ちの一端が見えたような気がする。しかしながら、これらの「コ」は形や大きさが微妙に関係している。例えば「ビンコ」なら今はプラ容器になって久しい乳酸菌健康飲料のヤクルト、これがビン入りだった頃その「トベンコナ/小さな」ガラス容器は「ヤクルトノビンコ/ヤクルトの瓶」と呼ばれたし、180cc入りの牛乳瓶も「ビンコ/牛乳の瓶」と呼んだ。それより大きなサイズの一升瓶などは「ビンコ」ではなく「ビン」になる。同等に「サラコ」というイメージも各人に配られる取り皿や豆皿、手塩皿のような小振りな皿であり、「ニスメ/煮染め」や「サスミ/お造り」を載せる大皿は「サラコ」ではない。「ナベコ」も大鍋ではなく小鍋だし「フタコ」は当然ながら外装より小さい。そしてそれらの最大の特徴は角がなく丸っこい形状であるということだ。

 次の「コ」は「ミセヤッコ/店」だ。「ミセヤ」は「店屋」であり宮古弁でいう雑貨屋だ。これも大型スーパーマーケットや郊外型のショッピングセンターに較べたら規模が小さくて可愛いものだ。コンビニで「パンコ/菓子パン」一個で会計するのは「ソースー/恥ずかしい」が「ミセヤッコ」ならアイス一個で堂々会計して「オオキニ/ありがとね」と声をかけてもらえる。「ミセヤッコ」と同じイメージで「ノミヤッコ/飲食店」がある。これはホステスのお姉さんがいるような店ではなく女将がひとりで切り盛りするような居酒屋のイメージだ。ひところ羽振りの良かった某社の社長が正妻として迎えられず「カゴッテ/囲って・妾にして」全面出費でカウンターだけの小さな店をまかせるというような雰囲気が漂う。どちらにせよ規模は小さく、こぢんまりした雰囲気であろう。

 そんな風に見てゆくと「コ」の正体は、愛おしく愛らしく、何物にも代え難いほど大切で、見た目小さく、こじんまりした角がない丸い物でろう。それは何か?と考えてみるとそれが「子」であることがわかる。語尾に付く「コ」は「小」であり「子」なのである。鳩山総理がおっしゃる通り、子は国の宝であり未来永劫いつまでも愛おしい存在なのである。東北特有の方言特徴の「コ」にはそんな温もりが隠されていたのである。  が、しかし、これだけで方言の語尾に存在する「コ」の意味を全面解決した気になっていけない。ひとつやふたつの理論で割り切れないところが東北弁、そして我らが宮古弁だ。語尾に「コ」が追加された方言の中には、「メンケー/愛らしい」とか、「マルケー/丸い」「チャコイ/小さい」などの意味とは別の意味の「コ」もあるのだ。例えば「トッケーコ/取り替える事・交換」「クミッコ/仲間になる事・グループ」「カグレゲーコ/かくれんぼ・遊び」などだ。これらは「小」や「子」とは別の「事」を表した「コ」であり愛らしいとか小さいという形容とは無縁の「コ」であり、なかでも子供たちの遊びでもある「カグレゲーコ」は「かくれんぼごっこ」であり、お医者さんごっこ、チャンバラごっこなどと同様の何かの真似事をした遊びの総称でもある「事コ(ごっこ)」だと思われる。

懐かしい宮古風俗辞典

きせかぷせ

色々な服や着物、帽子などを買って着せては脱がせ、被せ、また別の衣服を着せて被せて可愛がること。

 子供の頃からがさつで乱暴な「オドゴワラス/男の子」にくらべ、何かにつけて「オガスノニ/育てるのに」手のかかる女の子ですが、小さい頃から「メンコイ/かわいい」服を着せてみたり、長い「カミケ/髪の毛」を編んであげたりと女の子ならではの育て甲斐があるといいます。また、意外と精神的にも成長が遅く「ノホホーント/ぼやっと」して育つ「オドゴワラス」に対して女の子は精神的、肉体的にも成長は早く、とりわけ色や形、美しさ、可愛さに対する理解にも柔軟です。そんな女の子に親はもちろん、じじ・ばばまでもが次から次へと衣服を買ってあげては、それを着せて喜ぶ様子こそが「キセカプセ」でしょうか。また、可愛いわが子の寒さ対策のため過剰に重ね着させるような状態も、服を「キセデ/着せ」帽子を「カプセ/被せ」る「キセカプセ」です。究極の「キセカプセ」は成人式の晴れ姿。じじ・ばばは感激して20年の歳月で自分も年老いたのに孫の晴れ姿に「メッツル/涙」を流し、自分もそれだけあの世が近づいたことを実感します。

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