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2009/12 戦没者慰霊石碑順禮

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 長引く不景気で世知辛い世の中ではあるが、戦後の荒廃期から義務教育と安底した治安国家に成長した現在の日本という国は、幾多の戦で散った多くの犠牲者の上に成り立っている。戦争は二度と繰り返してはいけない負の遺産ではあるが、かつて日本がアジア経済圏獲得のため暴走したのは事実であり、同時にそれら戦役に多くの一般日本人が兵士や軍属として費やされ異国の地で帰らぬ人となったのも事実だ。誰を恨み、何を批判しようと死んでいった者は二度と帰らない。ただひたすら愛国心のために闘ったであろう英霊に感謝するばかりだ。そこで今月は戦争・戦役に関係した石碑や墓碑を巡ってみた。

 最初の石碑は田老乙部地区にある。碑は中央に軍属戦死者碑、下に日陰岩吉、四十七歳、下西孫右エ門、四十六歳、大谷徳次郎、三十八歳、山本永次郎、三十一歳とあり、台座正面に施主、山本亀太郎、高屋敷源四郎、船長、山本岩造をはじめ9名の連名がある。石碑裏には、軍用船(漁船)振栄丸ニ乗船シ昭和十九年十一月二十五日午前十時根室港ニ於テ作戦準備作業中爆雷ノ爆発ニ因リ戦没。と詳細が刻まれている。この石碑は田老観光ホテルから道をはさんだ乙部自治会研修センター脇の津波避難路を登った途中にある。

 次の石碑は宮古堀内地区にある。碑は大振りで中央に戦死軍人?とあるが下部が土中に埋没しており題字や碑文の後半が読み取れない。左右の碑文は題字に比べ彫りが浅く数行の文章の後半は土中に埋まっているため全文の判読は困難だ。それでも石碑右には追帰(?)明治三十六年戦没戦死者□□□□□会(埋没)十六堀内、小堀内若者一同相尚建□□□(埋没)、左に戦死、歩兵上等兵勲八等□級堀内福次郎君、同上等兵…(埋没)など、この地区から出征した数名の戦死者の名が刻まれている。

 次の供養碑は重茂地区にあるもので石碑ではなく観音像のモニュメントだ。観音像の台座は骨堂になっており正面に殉国慰霊観音像のプレートがはめ込まれている。観音像はブロンズと思われ蓮台座の右下に、重茂□□保正作とあるから、この観音像は重茂出身の彫刻家・吉川保正作であることがわかる。観音像左側には石碑があり重茂地区の戦没者の名前が刻まれている。それによると重茂地区から出征し第二次世界大戦で没した兵士は約100名おりその内訳は、北区17、音部35、元村30、南区25となっている。石碑は平成13年9月、重茂漁業共同組合、重茂遺族会、軍恩重茂支部が建立したものだ。

 吉川保正は明治26年(1893)に重茂に生まれ、盛岡中学~東京美術学校(現・東京芸大)の彫刻科を卒業。帝展入選などを経て県美術界の最高指導者として活躍した。吉川保正の作品は宮古駅前ロータリーにある「うみねこと乙女」をはじめ、田野畑村にある「三閉伊一揆」の像など宮古周辺に多く存在する。うみねこと乙女は昭和52年(1977)に氏が84歳の時の作でその後、昭和59年(1984)に91歳で没した

 最後の石碑は山口の如意山慈眼寺墓所にある、小説『寄生木』の作者・小笠原善平の墓碑だ。戦没英霊として単独に墓碑があるのはそう珍しいことではなく、市内各寺の墓所を巡ると様々なものを見かける。それらの墓碑は正面に兵士時代の階級と叙勲を表記し、側面や背面に兵士として活躍した経緯が刻まれる。善平の墓碑もやはりそのパターンで、正面の碑文は元軍人で善平の恩師でもある乃木伯爵の書で、故、陸軍歩兵中尉従七位勲六等功五級、小笠原善平墓とあり、左側面から、背面、右側面へと善平の足跡が刻まれている。漢字とカタカナで書かれた文体はやや堅苦しいが、ある程度の旧字知識があれば簡単に読み下せる文章であり『寄生木』ファンであれば是非とも、現地で読んでもらいたいものだ。ちなみに善平は明治39年(1906)旭川歩兵第27連隊在籍時に大尉に昇進、従七位、五級金鵄勲章、年金三百円、勲六等単光旭日章を賜り山口村へ戻り休養していたが、同41年(1908)ピストル自殺で没した。墓碑には「薬石効ナク…」と刻まれ、自殺を校生に伝えまいとする配慮が伺える。碑文最後には明治四十二年(1909)九月二十日、正七位勲七等、三鬼鑑識とある。(三鬼鑑とはのちの下閉伊郡長三鬼鑑太郎と思われる)

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