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2009/10 宮古マーケット物語・宮古弁版

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 時代と共に商店街エリアや人の流れは変化するもので、明治・大正期に三陸定期汽船によって釧路・塩釜・東京へと航路が拓けた頃の宮古の玄関口は「クワガサギ/鍬ヶ崎」であったし、昭和9年に山田線が開通すると玄関は西へ移動し田んぼだった谷地に「エギメー/宮古駅前」「キグヤチョー/幾久屋」や末広町が新開地として産声をあげた。その後敗戦と高度成長期を経て末広町に商店街が形成されほぼ今の形になり、そしてまた現在、商店街という概念は崩壊し人々の消費地は郊外へと分散し多様化している。今後はインターネットの電子取引も盛んになり益々多様化する消費動向ではあるが、今月はネットビジネスなど考えも及ばなかった昭和20~40年の宮古の商店街について思い出してみよう。

 戦後の宮古の商店街の中で最も輝き、そして完全消滅したのは駅前にあった引揚者マーケットであろう。このマーケットは現在の中屋ビルである「リラパークこなり」の敷地に最盛期で約70軒もの商店が軒を並べたテナント集合型店舗であった。ここで商いを営んでいたのは戦後に外地から引き揚げてきた人たちで当初「カダゲダ/片桁(中央通付近)」で「トイダ/戸板」を並べて市場から仕入れた魚などを格安で売ったのがはじまりだ。元々「カダゲタ」は宮古の市がたっていた場所で当時の「ケーサヅ/宮古警察署」が管理しており戦後、引揚者に便宜をはかって出店を許可していたものらしい。客は宮古市民をはじめ近郷近在、遠くは内陸から米を持参し換金して魚の買い出しをする専門屋もおりそれらの人は「ガンガラブダイ/がんがら部隊(ブリキの一斗缶を持参していたから)」と呼ばれた。

 昭和22年6月1日そんな「カダゲダ」で商売をする人たちが集まって駅前に集合店舗のマーケットを開業した。規模は敷地面積1090㎡に木造平屋建8棟の長屋を有し、約二間ほどの間口で74店舗が集まり2本の中央通路があった。経営母体は引揚者連盟宮古支部で当初の家賃は一ヶ月480円。これを日割りし日歩12円、残額をマーケット維持費とした。テナントとして入居していのは青果、鮮魚、惣菜、お菓子、乾物などの食料品店をはじめ、靴屋、下駄屋、写真屋、本屋、食堂、飲食店、パチンコ屋などあらゆる業種の店があり、ほとんどの経営者は店舗を住居にそのまま住んでいた。

 食堂や飲食店は当初5軒でスタートしたが水道の苦労があった。マーケットには井戸があったが水質は悪く飲食店で使うには衛生基準値をクリアできなかった。そのため駅の水道や県北バスの待合室から水を「クパッテ/運んで」使った。ちなみに水道は大家との立ち退き問題があったため最後までひけなかった。マーケットの飲食店は昼は食堂として麺類などを売り夕方から「サゲコ/酒」を出し陽の暮れから「アネサン/女性」の接待をつけたが、後期はホステスを雇い最初から夜型の営業をする店もあった。これらの店は後の「安慶」「白樺」でありオールドファンには懐かしい夜の社交場でもある。「サゲコ」は出さなかったが乾物を売っているうちに食堂化する店もあった。そんな店は麺類に加え夏は「コーリ/かき氷」ラムネ、冬はオデンに「ヌクタメダ/温めた」「ギューツー/牛乳」を売り当時駅前にあった宮古病院に来る人たちに重宝がられた。

 マーケットには「パンコヤ/パン屋」もあった。パン屋は製造と卸が中心で製品を鉄道弘済会や一般商店に卸していた。パン屋は3店舗分ほどのスペースを使い大きな煙突が突き出ていた。このパン屋は現在の「相馬屋菓子店」であり今も人気の相馬屋のあんパンは当時からのベストセラーでもある。

 この他に写真屋はカメラが普及していなかったためもっぱら出張撮影、時計屋は当初修理専門だったが後に製品も売った。変わった業種に貸し「ズデンサ/自転車」屋があり遠方から来た人に重宝がられた。当時から全国ネットだった越中富山の薬売りは宮古駅で列車を降り「ズデンサ」で宮古中を営業した。

 マーケットの屋根は「スキカーヤネ/杉皮屋根」に横木を打ち付け石などで固定したような程度だったので雨が降ると「ムリガムッタ/雨漏りした」。平屋店舗の天井裏に「ムタクタ/強引に」住居スペースを設けそこが生活の場だった。隣との仕切りは薄板一枚だったので話は筒向けだった。マーケットが開業してすぐの昭和23年9月、アイオン台風の豪雨で閉伊川が氾濫、マーケットにも濁流が押し寄せ商品はすべて流された。なんとマーケットは台風が目の前まできている夜半まで営業しており、通過後浸水したものの回復も早く市内が混乱状態にもかかわらず即座に営業を開始する逞しさがあった。しかし、災害後は水不足となり黒森方面まで水くみに歩いたという。

 マーケットでは当初創立記念日を設け、舞台などを設け大がかりに祭を行った。当時は娯楽も少なかったため近隣からも観客が集まり大盛況で「ハヅマンサマ/横山八幡宮」以上だと評価する人もいた。

 そんなマーケットも戦後の高度成長によるきらびやかな人々の暮らしから見ると、終戦直後の「スギカーヤネ」のバラックの店舗は「ソピタレデ/薄汚れて」おり、何でも揃う総合マーケットとは言え日に日に老朽化する店舗は「ブダゴヤ/豚小屋」のように見えた。加えて土地所有者との立ち退き裁判などもあり、衰退期の昭和40年には25店舗に住人29人となっていた。そしてこの年、最高裁で組合側の賃貸権上告が却下され9月17日、宮古引揚者マーケットの灯が完全に消えた。

 マーケットは時代に求められ誕生し、時代の変化で消え去ったのであった。マーケットが解体されても市民にはなんら感慨もなく買い物客は末広町商店街に流れた。マーケットに入っていた商店は市内各地区で新たに根を下ろし現在も商売を続ける店舗もあるが、時代に流されそのまま消滅した店舗も少なくない。 (※参考文献・本誌特集宮古マーケット物語・阿南透・著)


付録・懐かしい宮古風俗辞典

【もざぽえなす】

物を無くしたり壊したりして物持ちが悪い人。「モザポイナス」とも言う。

 高いお金を払って買ってあげたおもちゃをその日のうちに壊してしまう子供や、通信販売で買った便利な調理器具で料理を作ろうとしてうっかり黒こげにして使い物にならなくしてしまうお母さん、最新式のパソコンにメモリを増設しようとしてスロットを壊してしまうお父さん…。などなど「モザポエナス」は身近におります。彼らの特徴は往々にして取扱説明書などには目も通さず機械の仕組みや特徴を無視して自分のカンだけを頼りに「チョースマーステ/いじくり回して」力任せやついうっかり的操作で機械を壊してしまいます。そしてそんな状態に陥った時彼らは、己の非を棚に上げ発売元や開発元のせいにして、口を「トンガラガス/尖らす」わけです。それでも下ろしたての服を着せた日に泥んこ遊びをしたり、新品の運動靴で「タゴヲツッタリ/池などにはまったり」する子供などは言って聞かせれば学習してじきに直りますが、いい大人の「モザポエナス」は一生直りません。心当たりがある人は最低限取説はよく読むよう心がけましょう。

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