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2009/09 浜の宰相鈴木善幸書の石碑巡禮

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 原稿を書いている8月は月末に国政選挙を控えており、9月号が発行される頃には今回の選挙テーマでもあった政権交代にも決着がついていることだろう。今月の石碑はそんな選挙シーズンに合わせた訳ではないが、山田町出身で第70代内閣総理大臣も歴任した鈴木善幸氏(以下鈴木善幸)に関係した石碑を巡ってみた。

 鈴木善幸は年明治44年(1911)1月11日に山田町の漁家・善五郎・ヒサの長男として生まれた。大正6年(1917)山田尋常高等小学校を経て岩手県立水産学校(現県立宮古水産高校)を卒業、農林水産講習所(現東京水産大学)に進学、昭和10年(1935)に卒業、(財)大日本水産会(現全漁連の前身)に技師として就職し同会会長秘書となる。その後太平洋戦争を経て昭和22年(1947)日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。後、社会革新党を経て吉田茂率いる民主自由党に移り以後保守政治家となる。第一次池田内閣では郵政大臣、第三次池田改造内閣では内閣官房長官に就任。池田首相退任後の佐藤内閣で厚生大臣、その後、福田内閣で農林大臣などを歴任した。

 昭和55年(1980)大平内閣が解散総選挙となったが選挙中に首相・大平正芳が急死、内閣法の規定により首相臨時代行を前内閣官房長官がつとめたが、選挙は主流派を代表する形で総務会長の鈴木善幸が中心となっていたことから、新しい自民党総裁として首相・鈴木善幸が誕生、「和の政治」をスローガンに掲げ鈴木内閣がスタートした。この年、山田町をはじめ宮古・下閉伊は熱狂、鈴木善幸は首相として昭和57年9月にお国入りをした。このお国入りイベントは本誌でも取材し鈴木善幸お国入り記念写真集の別冊まで発行している。

 鈴木内閣は昭和57年(1982)の総裁選で再選されれば長期政権もありうるとされていたが同年10月、鈴木善幸は突然総裁選不出馬を表明し首相の座を降りる。内閣退陣後も役職を歴任していたが平成2年(1990)政界を引退、平成6年(2004)肺炎のため93歳で死去した。

 さてそんな鈴木善幸は岩水(がんすい)の愛称で知られる宮古水産高校が母校であり、戦後保守派が強いとされた宮古・下閉伊では絶大な政治家としての知名度があることからその名がある石碑は多い。今回はそんな石碑の中から鈴木善幸本人の筆による鈴木善幸書と刻まれた石碑を紹介する。

 最初の石碑は浄土ヶ浜御台場展望台入り口にある宮古海戦記念碑だ。碑は明治2年(1869)に勃発した戊辰戦争で宮古湾で起きた幕軍による官軍軍艦奪取作戦の記録を後世に残すため宮古ロータリークラブが昭和43年(1968)の明治百年を記念して建立したものだ。碑文は横書きで題字の下に衆議院議員・鈴木善幸書の文字がある。碑文はスペースの関係で改行の位置が不揃いになっているが、碑文の赤い御影石と砲弾を意識した黒い御影石などを使ったモダンなデザインとなっている。

 次の石碑は宮古駅前にある超我の碑だ。この碑は昭和19年(1944)3月12日、豪雪の山田線を宮古へ向かっていた蒸気機関車C58283の雪崩による脱線事故(平津戸~川内間)の際、瀕死の重傷を負いながら事故再発を防ぐため事故を最寄り駅へ知らせるよう機関助手に指示したまま絶命した機関士の国鉄魂を讃えた石碑で昭和47年(1972)に宮古ロータリークラブが建立したものだ。 碑には機関車のプレートがはめられ、左の題字下に鉄道建設審議会長・鈴木善幸書の文字がある。

 次の石碑は鈴木善幸の母校・宮古水産高校校庭にある同校百周年の記念モニュメントだ。このモニュメントはかつての県海洋実習船第二りあす丸のアンカーを使用したものでコンクリートの台座に防錆処理したアンカーと鎖が載っている。台座には、鈴木善幸書による「勤勉、誠実、進取」の同校校訓が横書きされ、背面には平成6年1月19日の建立年月日がある。

 最後の石碑は田老館ヶ森の常運寺墓所にある戦没者慰霊碑だ。碑は正面に鈴木善幸書で戦没英霊之碑とあり左右後ろに日清日露戦争9名、満州事変4名、支那事変8名をはじめ大東亜戦争191名が刻まれている。今回の鈴木善幸書の石碑のなかで唯一縦書きで雄大な筆で書かれている。

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