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2009/07 和井内神山石碑群巡禮

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 先月号の特集『地名大図鑑』で旧新里村界隈の小字名を探し歩いた際にいくつかの石碑を見つけた。今回はそんな中から和井内地区の神山と呼ばれる場所にある石碑を紹介しよう。

 神山は国道340号線から安庭山荘へ向かうように左折したJR岩泉線の鉄橋の付近で、刈屋川と安庭沢が出会う突端にある岩山だ。この付近はおそらく岩泉へ向かう旧街道で和井内村の村境であったと思われ、そんな境にいつの頃からか小祠や石碑が集まり「神山」の名で呼ばれるようになったと考えられる。現在は朽ち果てた鳥居、数基の石碑、養蚕神を祀ったという祠2社がある。突端上部はわずかながら広場になっているが東西の端は安庭沢と刈屋川にほぼ垂直に落ち込んだ崖になっており、ここが街道の難所であったことがわかる。また安庭沢をはさんで対岸の山の上は中世の和井内舘があったところで、頂上付近は人工的な空堀が巡らされ八幡神社が祀られているという。舘主は和井内氏で南部氏に従い『岩崎御出陣人数定』にその名があり禄を賜ったという(田村忠博・古城物語)。「岩崎御出陣」とは豊臣秀吉の奥羽仕置に乗じた南部氏の暴挙で没落した和賀氏の遺児を中心に諸舘の残党が伊達氏の援護で南部氏と戦ったもので、この戦に南部氏の陣営として和井内氏も参戦したということだ。また、和井内には「舘」という小字名があり、時代が下ってから和井内舘主が里に下りて屋敷を構えたため舘の名が残ったものだろう。

 さて最初に紹介する神山の石碑は前述の和井内氏にも関係するものだ。石碑上部には篆刻文字のような書体で、閉伊七社とあり、順に國界明神、松山明神、老木明神、川井明神、川内明神、小國明神、川嵜明神と神社名があり、左側面に大正十五年十二月廿五日(1962)建立、東館勇太郎刻、そして下部には古館末大、大■与三郎、平片千三郎ら26名の連名が並ぶ。連名の名字は東館、上館、古館、中館などの「舘」の字がある人物が多く何らかの形で和井内舘に関係した子孫らが集まりこの石碑を建てたのかも知れない。閉伊七社は伝説によると鎌倉初期、気仙地方から北上し宮古根城に築城した初代の閉伊氏が没した際に殉死した七人の重臣を祀ったとされる神社だ。しかし、閉伊氏初代の閉伊頼基は北上しながら宮古へ入るだいぶ前に山田町船越で没したという説もあり、閉伊氏家臣を祀った明神であるにしても主を追って殉死したというのは後付の逸話だったと考えられる。

 次の石碑は不動尊を祀ったものだ。碑は中心に関口不動尊、右に大正拾年(1921)、左に五月廿八日とある。下部には連名があり右に藤原賢三、西里善兵エ他7名、左に重掘祐太郎、橋本セツ、佐々木マサ他8名、合計15名の連名がある。この碑の文字はかなり達筆で解読は難解だ。関口不動は山田町関口地区に祀られ、宮古下閉伊でもっとも大きな不動を祀った神社だ。明治の神仏分離令で仏教色が強い不動尊や薬師如来を祀った神社は一端、地下へ潜ったが後に復活し火伏せや鉱山、製鉄関係に信仰された。また渓谷の滝に不動を祀る信仰もあることから、江戸初期には産金の歴史もあった安庭沢の渓谷に不動信仰を持ち込んだのかも知れない。

 次の石碑は神山にある養蚕神の社に関係するもので、中央に為・産蠶養師彌■太菩提とあり、右に仙壹、安政二(1855)、龍舎、左に東山、卯、三月十一日立とある。下には当村施主、中三組世話人、和合坊他6名の連名があり最後に、不動院助彦とある。この石碑が養蚕に関係し、建立にあたりこの地を霞としていた和合坊という山伏が世話をし不動院という宗教者が養蚕を司る祖師を供養したものだろうが、文字に難解な部分が多くもう少し深い意味があるかも知れない。

 最後の石碑は小振りなもので中央に雷神、左に大正十四年六月廿八日(1925)、左に中組両中とある。雷神の文字の横には浅い彫りで■■五穀豊應祈願とある。おそらくこれは神山の木に落雷しそれを雷神として祀ったものだろう。古来より落雷した土地は電気イオンの影響で活性化することから落雷した樹木で御札を作ったりして雷を神格化してきた歴史があり、この石碑も五穀豊穣の願いが込められている。

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