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2009/04 常安寺石碑巡禮

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 私たちが住んでいるこのまちは長い時間をかけて姿を変えていくが、その度に石碑などは移転したり撤去されたりしてきた。石碑が完全に個人の所有地に建てられていたり、石碑の建立者が個人で末裔が明確であれば石碑が動き回ることはないのだが、重要な街道とは言え馬や荷車程度しか通行しなかった道は時代とともに道幅が広がり、小さな行政区の合併によって街道筋や塞ノ神として村の入り口に並べられた石碑は身近な寺や神社の参道へ移転する。

 石碑を含め信仰媒体というものは基本的に人が個人的に祀り上げたものであり、信仰が次の世代まで受け継がれない場合は廃れる。それらは村社や郷社とされた比較的大きな神社の境内に小祠として集まってきたり、寺で見かける供養する人がいなくなった墓石を1カ所に集めて並べて合同で祀る方式などもそういったケースであろう。また、顕彰碑や水難関係の慰霊碑などは個人の敷地や墓所に建立するわけにもいかず最初から寺の参道に建ててその人物の功績を後世に伝える、またはその事故を教訓として残そうという目的もあるのだろう。そこで今回は色々な建立背景を持った石碑が集まっている沢田の常安寺の石碑を巡ってみた。

 最初の石碑は常安寺山門脇にある橋場英治という教師の顕彰碑だ。碑は台座は石だが銅板の額がはめ込まれた部分は自然石ではなくコンクリート製だ。銅板には橋場英治先生乃碑とあり「も一度は吾を、立しめよ、蛸之浜乃、瑠璃鳴く朝の、真砂能上に」の句があり、昭和十一年(1936)八月建立、山鳩会、□□書(落款・服部)とエッチングされている。 橋場英治という人の詳細は定かではないが、武二郎、英治、堅三の三人兄弟で鍬ヶ崎に生まれ、三人とも教師となり次男の英治は兄・武二郎の影響で絵がうまく好んで風景画を描き、後に絵の教師として下閉伊各学校で教鞭をとったが37歳で没した。この碑を建てた山鳩会は宮古小学校の橋場英治の教え子たちだというがこちらの詳細も今となっては判らない。

 次の石碑も常安寺山門脇にあるもので、中央に菓子技術功労者供養塔、右に昭和三十一年(1956)十二月建立、左に施主、宮古菓子技術研究会とある。この石碑は昭和30年代あたりの市内の菓子店の組合のような組織が先達の技術者を弔うために建てたものだろう。昭和30年当初は宮古名物のイカせんべいの他に鯛せんべい(鍬ヶ崎)、鮎せんべい(千徳)などのローカル駄菓子も多くどの品目も名物として輝いていた時代だ。

 次の石碑も常安寺山門脇にある。碑は江戸末期から明治初期頃、鍬ヶ崎の通称・道又沢にあった松原塾という私設の寺子屋の主、松原左蔵の顕彰碑だ。碑は上部に篆刻のような独特の書体で「松原先生碑」とあり、漢文の碑文が刻まれている。碑文は盛岡の谷河尚忠という人が撰文しており、藤田琳郎という人の筆によるものだ。松原佐蔵は文化14年(1817)鍬ヶ崎に生まれ、江戸へ出て学問を学び後に一関の千葉氏の元で数学を学び南部藩に仕え、藩給人として鍬ヶ崎に戻った。家は貧しく魚や菓子を売って生活をしのいだというがその間もひたすら勉学に励み、晩年には弟子を集めて松原塾を創設し多くの門弟を集めた。明治になり私塾が廃止されると佐蔵は教員に委嘱され明治11年(1878)まで教師として教鞭を振るったが、同13年(1880)64歳で没した。碑は師である佐蔵の功徳を偲び門下生たちが、明治丙午(1906)に建立したものだ。この碑の横には松原左右(さすけ?そう?)先生碑という石碑がありこれも松原佐蔵の関係の碑と見るのか、まったくの別物と考えるのかは読者の判断にゆだねたい。こちらの碑には明治二年(1869)十一月一日卒、習字之門人建立とあり松原佐蔵の死より11年前の年号がある。

 最後の石碑は常安寺裏手の墓所内にあるもので、坂本律子の碑というものだ。碑は大きめの赤みを帯びた自然石で裏面に御影石の額がはめられ次のような碑文がある。「律子逝いて二三年追慕憶び未だ覚めず、君は愛と知性と良心とに立脚した生涯を完した、茲に君の冥福を祈り、此の碑を建てその□を讃う、昭和四十四年(1969)彼岸会・永七標す」

 この碑は個人墓地の敷地にあるのもでこの碑が建立された経緯や碑文の坂本律子という人物については不明だが、この女性が亡くなってから大勢の人たちが故人を偲び追善供養したことは事実だろう。

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