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2009/02 新里地区刈屋、茂市の石碑巡礼

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 旧新里村の石碑関係の資料は作成された時代が古いことと冊子がごく少数しか現存しないのが難点だ。市史編さん室に問い合わせれば閲覧は出来るのだが、掲載されている石碑の八割弱は道路拡張などで動き回っている可能性が高く、それらの在所を探すより、めぼしい場所を定期的に訪れ散策する方が早道だと思う。現在、宮古市教育委員会では旧新里村、旧田老町を含め点在する石碑をまとめた資料を制作中だと聞くがその完成の目処はまだまだ先のことだろう。

 さて1月も中旬となればいつ本格的な雪が降るとも限らないわけで、石碑の写真を撮るなら善は急げかもな…。そんなことを考えながらカメラとノートだけを持って新里地区の石碑散策に出かけた。

 新里地区には刈屋の高昌禅院と和井内の宝鏡院のふたつの寺院がある。和井内の宝鏡院は鞭牛和尚生誕等に関係する寺で鞭牛関係の石碑も多いとありこのコーナーでも何度か紹介している。そこで今回は刈屋の高昌禅院の石碑を散策した。高昌禅院は花原市の華厳院・六世三叟義門和尚により開山、この時現在の名称になり曹洞宗になったという。資料によればこの寺の前身は刈屋地区を統治していた豪族「苅屋氏」の菩提所として弘治年間(1555~57)に建立されたという。また苅屋氏は中世の閉伊地方を統治した「閉伊氏」の血縁にあたり、のちの閉伊十三家のひとつで、天文13年(1544)に苅屋上野介高義(かりやこうずけのすけたかよし)が没し、これを高義より二代下った伊予介政基介(いよのすけまさもと)が当地に「全昌山・高松院(ぜんしょうざんこうしょういん)」を建立、苅屋氏・初代の高義を本嶽源公大禅定門の戒名で弔っている(いわてのお寺さん)。建立当初は個人的な草庵程度と考えられこれを華厳院の三叟義門が寺として再興したのであろうか。

 石碑はそんな華厳院との関係を物語るもので、大正14年(1925)の華厳院住職・不二東傳の書によるものだ。石碑は上部に大日如来を意味する円の象徴、中央に妙典三部・一字一石塔、右に大正十四年八月檀家有志一同建立、現十九世代、左に華厳不二東傳拝書とある。

 次の石碑は茂市から刈屋~和井内~押角を経て大川、岩泉に抜ける旧刈屋街道沿いの道祖神で。石碑は刈屋川に支流である倉ノ沢が交差する「舘町」付近の石碑群の中にある。碑は中央に道祖神敬塔、右に、右ハわうらい、丙文化三年(1806)願主、左に、左ハやまミち、寅正月吉日組中とある。石碑は道路普請や橋などを架けた記念として建立されたものと思われ、その際に追分道標としての役割を付加価値として付け加えたのだろう。「わうらい」は往来で街道を表し「やまミち」は倉ノ沢沿いに行く山道を表す。

 次の石碑は茂市熊野神社境内にあるもので近世のものだ。中央には大国神、右に昭和十八年(1943)、左に正月建立とある。下のコンクリート製の台座に額石がはめ込まれそこに、發起人伊藤留蔵、橋本重太郎、野崎熊之助、ほか18名の連名があり最後に石工和美粂吉(くめきち)の名がある。この石碑が建てられたのは太平洋戦争まっただ中の昭和18年の1月だ。この頃は前年のソロモン海戦など南太平洋での激戦が頻発した時期で、日本軍、連合軍も半年にも及ぶ消耗戦により両軍に大きな損害がでていた時期だ。石碑はそんな戦局の中で日本軍が優位に立つよう祈願するため「大国神」として建立されたものだろう。通常このような石碑は敗戦後に撤去されたり、台座のみ残して本体が紛失したりするがここではそのまま残されたようだ。ただ、連名の中の一人の名前のみが新たな彫り込みで消されておりその意味が気になるところだ。

 最後の石碑も茂市熊野神社にある。石碑は中央に三十三観世音、右に昭和二十年(1945)七月十七日、左に寄進者有志一同とある。石碑には最近作られ鞘堂があり、掲げられた観音堂由来によると次のようなことが判る。明治3年(1870)神仏分離令で茂市公葬地に移転、昭和20年(1945)山田線からの飛び火による山火事で公葬地の観音堂焼失、同24年(1949)祈祷師佐々木タケの託宣で元の場所へ戻りたいとのお告げにより観音堂再建となる。その後平成20年に再興、60年を記念して鞘堂建立となったという。鞘堂には半鐘があり鐘には奉納、三拾三観音、慶應二年(1866)寅、七月十七日、施主、宮古、茂市村、伴二、徳蔵、要助、子松、寅松、源次郎の連名がある。

 茂市公葬地は現在の国道106号線沿いにある新里生涯学習センター(旧・玄翁館)付近の小山で現在は国道のため開削されて一部が残るのみになっている。

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