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2009/02 宮古弁にも法則があるぞ

提供:ミヤペディア
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 ごく一部の地域でしか話されていない方言もそれをコミュニケーションとして語る人とその地域が現存する限り立派な日本語だ。そんな方言は日本中の各地域にゴマンと存在し、僕たちが愛してやまない宮古弁もその中のひとつだ。朝起きて「ツァ、ヤッテダー、ユギガフッテダガッカ/ちくしょう雪が降ってやがる」と独り言をつぶやき、雪道で渋滞する車列の中で「イヤ、マツトモハー/ちぇっ、どうしようもねーな」と落胆するなど、僕たちは無意識に心の中で宮古弁を語り、それを声にしたり「カッツブスタリ/かみころしたり」しながら宮古弁と一心同体で生活している。そんな田舎者で「ヨガベーガ/いいじゃないか」と胸を張るネイティブな僕たちが操る宮古弁にも意外な法則があったりするのをご存じだろうか?今月はそんな宮古弁の知られざる法則から見ていこう。

 方言なんて地域限定だしあれこれ調べても「オモッツォミ/面白み」も達成感も「ネーンデネーノ/ないんじゃない」と思いきや、この道の先人の先生方は宮古弁もしっかり日本語の一部として研究し、地道な聞き取り調査を元に様々な理論、推論を打ち立てている。なかでも今回紹介する「コソアド」は国語学者で日本語のアクセントを研究した、佐久間鼎(さくまかなえ)氏が命名した指示代名詞を中心とした副詞の大系であり、これが宮古弁にもあてはまる。と、学問的切り口で説明すると「コメンドクセー/小難しい」わけだが、今から挙げる4つの宮古弁の先頭言を順に集めると「コ」「ソ」「ア」「ド」になるので確かめて欲しい。

 では例題。①「コゴナッツ/ここ」②「ソゴナッツ/そこ」③「アソゴナッツ/あそこ」④「ドゴナッツ(テ)/どこ」これらの先頭語を集めてると「コソアド」となる。しかもこれらの言葉は言葉を発した自分の位置を中心にした場合、手の届く範囲の「コゴ」、ちょっと離れた「ソゴ」、もう少し離れた「アソゴ」、そして場所が特定できない「ドコ」に分類されている。これらは「コッツ/こっち・自分」「ソッツ/そっち・そなた」「アッツ/あっち・あなた」「ドッツ/どっち・どちら(様)」にも展開可能だ。こうなると「コレヤガドー/こいつら」「ソレヤガドー/そいつら」「アレヤガドー/あいつら」「ドレヤガドー/どいつら」でもいいし、会話的には「パーマ屋/美容院」や「トゴヤ/理髪店」で髪型のカタログ写真を見ながら客が「コンネーニステケドガン/こんなにしてください」と美容師に頼むと美容師は「ソツラノカミハ、ソンネーニハ、ナンナゴゼンス/お客さんの髪はそんな風にはなりませんね」そこで客は店内のポスターのモデルを指さし「アンネーニ、スッテーンダードモネー/あんなにしたいんですがねー」そこでまた美容師が「ドンネーニス/どんなにですか」と言う情景も見えてくる。

 要するに「コソアド」は扇型に広がるビームのようなものだ。「コレコレアネサン/ちょっとおねえさん」と肩を叩く「近称」。「ソレートッテケドガン/それを取ってください」と誰かに頼む「中称」。「アレヤガドーニカガッテハ/あいつらには手をやく」と愚痴をこぼす「遠称」。そして方向や場所が定まらない「ドゴサガイッター/どっかにいった(紛失した)」という「疑問称」の5つのパターンなのである。

 と、まぁ、宮古弁も方言ではあるけれど、気をつけて聞き比べるとある程度は国語(日本語)の法則に基づいて変化しているパターンが見え隠れしている訳だ。だが、この程度のパターンを見抜いたからと言って解明できるほど甘くはないのが宮古弁だ。次は「コソアド」の「ド」に分類される宮古弁のカオス状の変化を見ていこう。  まず「ドゴノガ」だ。これは「どこか」あるいは「どこの」と訳され「ドコノガオドゴ/どこかの男」「ドゴノガワラス/どこかの子供」などで会話的には「サーテ、ドゴノガアネサンナーモンカ/さぁてね、どこのご婦人なもんだか」になる。これらは「ドコ」「ノカ」が合体していて「…ノ?」「…カ?」は疑問的問いかけであることが判る。次は「ドゴサガ」と「ドゴニガ」だ。これは両者とも「どこに」という意味を持っているが「ドゴニガ」の方が方言的には軽い感じで「ドゴサガ」の方は完全に宮古弁として「ニスマッテ/煮しめた」感じがする。これらの言葉が使われるパターンは「ドゴニガヤッター/自分の不注意で紛失した」「ドゴサガイッター/気づかないうちに紛失した」などで、会話的には「ドゴサガ、カダヅゲダーヨーナーキガセンス/どっかに片付けたような気がします」となる。次が「ドゴデガ」だ。これは共通語の「どこでか」に濁点をプラスしたものだが、使われるパターンは共通語とは異なっていて、「ドゴデガミダー/どこでか見た」となるが、共通語的表現は「どっかで見た」であり「どこでか見た」はあまり一般的ではない。

 次に「コソアド」の「遠称」である「ソ」にある変わった変化をみてゆこう。まず「ソゴサバ」だ。これは「そこへは」という意味だが、なぜかこの宮古弁では「ハ」に濁点を加えている。また「そこへは」の「へ・に」を「サ」に変換しているのも特徴だ。「…ハ」を「…バ」とするのは事象の強調であろう「オラサバケンネーデ/俺にはくれないで(不満)」「アソゴノイエサバハーイグナ/あの家にはもう行くな(注意)」「ニグバカンナゴゼンス/肉はたべません(主張)」のように強い意見を表している。「サ」は宮古弁の中でも使用頻度が高く特に「…ヘ」「…に」を「…サ」と変換した会話は日常茶飯事だ。「ガッコウサイグズカン/学校に行く時間」「クルマサノッテマッテロ/車に乗って待ってろ」「オラモオヨギサイキテー/自分も泳ぎに行きたい」などでほとんどの宮古人が「へ」を「サ」に変換して毎日使っている。このほかにも「ソゴナッテ」の「ナッテ」、「ソンナナーゴド」の「ナナー」、「ソンタナーゴド」の「タナー」など宮古弁にはまだまだ不可解でおもしろい変化の仕掛けが隠されているのだ。

 お歳を重ねると会話の端々で思い浮かぶ映像や事象を相手に伝えるとき「アレ」とか「ソレ」ばかりですぐに名称が出てこなくなるようです。脳みそ老化は言葉から。血圧や足腰も大事ですが『みやこわが町』の『クイズ宮古弁』で毎日脳みそを鍛えることも忘れずに。では隣のクイズ、早速「ヤレンスペス/やりましょうよ」。


付録・懐かしい宮古風俗辞典

【よだがのふるあずぎ】

夜鷹は夜遅くまで起きている人の例え。古い小豆(あずき)は長時間火にかけてもなかなか煮えないという意味。転じて「なかなか寝ない(煮えない)」

 豆類をふっくら炊き上げるコツは火加減、水加減も大事だがもっとも大切なのは豆の鮮度だ。何年も年を越してカラカラに乾いた豆は「サギノバンゲー/前日の夜」から水で「ウルガステ/水を含ませて」もさっぱり「ヤーコグ/柔らかく」ならない。そんな事柄から、夜になると爛々と目が輝く夜行性の「ヨダガ/夜鷹」となかなか煮えない豆を「ネネー/寝ない」=「煮えない」とカケて、夜遅くまで起きている子供らに例えて「ヨダガノフルアズギ」と言う。朝早くから「アサメスメー/朝飯前の野良仕事」の仕事もあるから早めに布団に入って、夫婦は夜の営みを開催したいのだが、そんな日にかぎって「ワラスガドー/子供ら」は全然寝る気配がない。「アーリイェィ、コノ、ヨダガノフルアズギニ、カガッテハー/こんちくしょう、このなかなか寝ない子供らに手をやかされる」と主導権を握るはずだったお父さんも困り顔。ちなみに同じような意味で「ヤショグノ、ツッカダマリ/夜食の消化不良によるもたれ」もある

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