Miyape ban 01.jpg

2009/01 寺院や墓地の顕彰碑を巡る

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

 寺の山門や墓地には区画整理や道路開削などによって撤去あるいは移転しなければならなくなった石碑などが集められたり、洪水などで台座を失い元の場所へ戻せなくなった石碑、地域に貢献した人物の顕彰碑、地震や津波、船舶の海難事故などで亡くなった複数の溺死者を供養するための石碑が建てられたりする。それらの石碑は石碑を建立するための発起人などが集まり寺と交渉し、場所を選定しおそらくは関係者が集まっての序幕なども行われたと思われるが、いつしか時が流れその石碑の建立理由は人々の記憶から消えてゆく。石碑は石に文字を刻み言葉を残し後世に伝える特性には優れているが、その文字情報が希薄だと建立理由もしだいに薄れる。石碑は刻まれた文字の達筆さもさることながら何より文字情報としての伝達力も大切な要素なのである。難解で高尚な古典的表現や、篆刻のような文字、そして文字を刻む石材の素材、文字の深さなども情報要素を左右する。その気になれば拓本を取って崩し字辞典や古語辞典などをめくれば多少は解明も可能だろうが、普段から拓本を採取する道具を持ち歩く人はそうはいない。まして供養碑、顕彰碑などは普通に読める程度の文字使いの石碑こそが後世に伝わると僕は思う。そんなことを思いながら今回は寺や墓所を散策した。

   最初に紹介するのは蛸の浜の九峰山・心公院登り口の石碑群の中にある顕彰碑だ。ここには海難、溺死者供養の碑にまじって個人名の刻まれた顕彰碑が数基あり今回紹介するのは、故・古館長蔵翁頌徳碑だ。碑の後ろには古館氏の詳細が刻まれており、その内容を要約すると次のようになる。昭和7年(1932)、古館氏は自らが植栽した千徳村字根市雲南沢の立木を含む山林4カ所の土地を、千徳小学校改築、同中学校増築のためこれを売却し益金130万円を千徳小・中の増改築に充てたとある。これを称え千徳学区住民大会において古館氏の頌徳を称え顕彰碑を建立したということになる。石碑右には昭和三十二年(1957)十一月三日、宮古市千徳学区民代表・盛合要之助、同・青年会会長・大森幹枝、石碑左には神林鮫洞書・瀬浪福松刻とある。古館という姓は千徳にも鍬ヶ崎にもあり、両古館家の詳しい関係は不明だが、鍬ヶ崎の古館氏が千徳学区に貢献していることから、当時両家は深い関係があったと考えられる。

 次の石碑は沢田の宮古山・常安寺参道にある一風変わった石碑だ。碑は上部に縦筋の装飾があり、中央に政府會総務代議士・熊谷巌先生碑とある。石碑右にはこの碑の由来が記されており要約すると次のような事がわかる。昭和19年(1944)6月大東亜戦争(第二次世界大戦)の際、熊谷代議士の胸像が応召(供出)され、戦後荒廃したままになっていたのを遺憾に思い、同志らが昭和25年(1950)11月、胸像台座を顕彰碑に改造したというものだ。発起人は小笠原孝三、藤島弥助、坂下吉右ェ門(碑文のまま)、鈴木清五郎、佐藤益三で、最後に石工・瀬浪福松とある。熊谷巌代議士は宮古町出身で昭和3年(1928)1月21日告示の第16回衆議院議員選挙・岩手1区において立候補し当選、国鉄山田線開通に尽力した人物だ。次いで昭和5年(1930)の第17回衆議院議員選挙・岩手1区では新人の高橋寿太郎氏(立憲政友会)と激しい選挙戦を展開し両者当選している。この石碑の台座はかなり大きく石碑が当時の胸像が乗った台座であったか、新しく新調したものであったかは断定できない。

 次の石碑は藤原観音堂横の公葬地にある赤沼家という個人墓地の敷地内にあるもので、恩師を偲んだ墓碑だ。正面には赤沼孝太郎先生・赤沼サタ先生墓、右に昭和二十三年(1948)九月十七日歿・教乗院悟了日全居士・享年六十四、定乗院妙操眞大姉・享年五十六とある。左には宮古市金濱、高濱、白濱、田老町水澤有志及門生一同、岩手縣知事・國分謙吉書、昭和三十年八月建之とある。墓碑は50センチほどの小振りなもので見たところ夫婦で教師をしていた赤沼先生の七回忌などに教え子らが有志となって墓碑を建立したものと思われる。赤沼教師がなくなった昭和23年は9月15日のアイオン台風で多くの人命が失われており、赤沼夫婦も被災し助けられたが数日後亡くなったものと思われる。

 最後の石碑は同じく藤原公葬地にあるアイオン台風の供養塔だ。碑上部には阿弥陀如来を意味する梵字「キリーク」、アイオン颱風水難溺死者八拾九名之供養塔とあり、右に昭和廿九年九月建立、藤原御詠歌會、左に常安寺廿二世文雄叟(そう)とある。アイオン台風は敗戦復興の杭を打つ人々の機運を飲み込む災害であり、特に藤原地区は多くの被災者を出している。また、アイオン台風の名は日本が占領下であったためアメリカ式の名称で記録された台風でもある。

表示
個人用ツール