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2008/10 金浜神峯山江山寺石碑巡礼

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 神峯山江山寺は江戸初期の開山とされ、開山経緯に関係する南部信直の御墨印のある古文書があるという。それによると江山寺開基は慶長4年(1599)で、当時高浜・金浜を知行していたと思われる船越助五郎宛てに高浜村菩提一ヶ寺開基を許可し、その名称を神峯山江山寺と定めその敷地等を寺院持ちとして認可する旨が記載されている。『いわてのお寺さん・県北と沿岸北部』によると開山当初の住職は養庵泉育(ようあんせんいく)和尚とされ、江戸後期の文化2年(1805)の十一世・東岳宋仙(とうがくそうせん)の代に末寺として鍬ヶ崎に九峰山心公院を創建している。

 藩政時代、南部藩菩提寺として県内の曹洞宗の寺を傘下にしていた報恩寺の文書であり元文3年頃(1738頃)から編纂されたとみられる『報恩寺末寺諸留』(岸昌一編)によると、北閉伊郡金浜村・神峯山江山寺現住とし、最も古い記録として延享元年(1744)、鹿角郡小平村生まれで、同郡同村圓福寺住職から享保13年(1728)に北閉伊郡和井内村宝鏡院を経て江山寺に住職として入院した、大江(だいこう)和尚が病死、無住となったので同年、刈屋村高昌院より知山(ちざん)和尚が入院したのち隠居した旨が記載されている。その後、天明期、寛政期と目まぐるしく住職が変わるとともに無住の時代もあり、最終記録として江戸末期の文久2年(1862)2月に入院しその年の12月に病没した東吾(とうご)和尚の記録がある。

 江山寺は寺子屋としての側面も寺歴として残されている。また、明治9年(1876)旧磯鶏村の磯鶏小学校初代主任訓導となったのが、江山寺住職・上館文峰(かみだてぶんほう)師だった。文峰師は岩泉小川袰綿の生まれで、幼い頃から江山寺に弟子として入り修行を続け江山寺16世となった。晩年は小学教育伝習所で最新教育を修得、明治14年(1881)に盛岡へ出て小学師範学科を修め磯鶏小学校の校長となった。  さて今月の石碑はそんな金浜の神峯山江山寺の石碑や石仏を巡ってみた。最初の石碑は江山寺入り口にある石碑群の中にあるもので、南無地蔵大菩薩と刻まれた石碑だ。年号は享保十二年(1727)とあるがその他の情報は風化により読み取れない。通常このような石碑の場合、地蔵菩薩ではなく西方浄土思想の象徴でもある阿弥陀如来、あるいはそのお題目である南無阿弥陀仏と刻まれた石碑が多いわけだが地蔵菩薩の石碑はあまり見られない。

 次の石碑は江山寺山門石段左脇の六地蔵と並んで立つ地蔵菩薩が載った墓碑だ。この石碑は数年前の「梵字のある石碑シリーズ」でも紹介したこともある。碑は正面中央に胎蔵界大日如来の真言種子である梵字「ア」があり、その周りを25文字の梵字が囲んでいる。この梵字は光明真言という呪文でこの真言を百回唱え土砂を加持し死者の上に撒けばその加持力によって死者のあらゆる罪が滅罪し西方浄土へ往生できるとされる。事実、この石碑には二人の戒名が刻まれ、円形に配置した光明真言の下に、百萬遍とあることから、死者の追善供養として石碑を建立し光明真言の百万遍で成仏を願ったものと考えられる。戒名は到運月溪禪信士、實英姉位禪信女。施主は磯鶏村の二十代大伊綜兵衛。建立年は天保十六年(1844)亥年四月だ。

 次の石碑は山門脇の石碑群の中にある。中央に三陸海嘯横死者精霊、右に明治二十九年六月十五日、左に旧五月五日夕、施主・金浜若者中とある。明治29年の三陸大津波は6月15日の午後7時33分20秒に起きた、北海道から東北、関東に及ぶマグニチュード7.6の激震による津波だ。記録によると地震直後、北方海上から数回にわたり轟音が響きやがて雷鳴のような音をたてて津波が押し寄せ第一波で沿岸の村は津波に飲み込まれた。その後、数回にわたり激震があり朝まで合計7回の津波が青森、岩手、宮城の沿岸を襲った。この津波で旧田老町は336戸が流出、1859人の死者を数えた。宮古で最も被害が大きかったのは金浜、高浜で次いで石崎、飛鳥方、神林、白浜で流出家屋121戸、死者96人だった。石碑は津波の翌年か数年後に死者を弔うため建立されたものだ。

 最後の石碑は江山寺境内の地蔵堂にあるもので、中央に寛政年度義士供養塔、右に明治三十二年(1899)旧七月、左に施主・金浜中とある。しかし、この石碑の寛政年度の義士というのが判らない。明治32年から100年遡ると寛政11年(1799)だ。『岩手県史』によればこの年幕府が南部と津軽両藩に500人を出兵させ函館を防備させたというのでこの兵士たちを義士と見立てて供養したのか、まったく別な仇討ちや改革に対してのクーデターで命を落とした義士を供養したのか真意がわからない。 神峯山江山寺は江戸初期の開山とされ、開山経緯に関係する南部信直の御墨印のある古文書があるという。それによると江山寺開基は慶長4年(1599)で、当時高浜・金浜を知行していたと思われる船越助五郎宛てに高浜村菩提一ヶ寺開基を許可し、その名称を神峯山江山寺と定めその敷地等を寺院持ちとして認可する旨が記載されている。『いわてのお寺さん・県北と沿岸北部』によると開山当初の住職は養庵泉育(ようあんせんいく)和尚とされ、江戸後期の文化2年(1805)の十一世・東岳宋仙(とうがくそうせん)の代に末寺として鍬ヶ崎に九峰山心公院を創建している。

 藩政時代、南部藩菩提寺として県内の曹洞宗の寺を傘下にしていた報恩寺の文書であり元文3年頃(1738頃)から編纂されたとみられる『報恩寺末寺諸留』(岸昌一編)によると、北閉伊郡金浜村・神峯山江山寺現住とし、最も古い記録として延享元年(1744)、鹿角郡小平村生まれで、同郡同村圓福寺住職から享保13年(1728)に北閉伊郡和井内村宝鏡院を経て江山寺に住職として入院した、大江(だいこう)和尚が病死、無住となったので同年、刈屋村高昌院より知山(ちざん)和尚が入院したのち隠居した旨が記載されている。その後、天明期、寛政期と目まぐるしく住職が変わるとともに無住の時代もあり、最終記録として江戸末期の文久2年(1862)2月に入院しその年の12月に病没した東吾(とうご)和尚の記録がある。

 江山寺は寺子屋としての側面も寺歴として残されている。また、明治9年(1876)旧磯鶏村の磯鶏小学校初代主任訓導となったのが、江山寺住職・上館文峰(かみだてぶんほう)師だった。文峰師は岩泉小川袰綿の生まれで、幼い頃から江山寺に弟子として入り修行を続け江山寺16世となった。晩年は小学教育伝習所で最新教育を修得、明治14年(1881)に盛岡へ出て小学師範学科を修め磯鶏小学校の校長となった。  さて今月の石碑はそんな金浜の神峯山江山寺の石碑や石仏を巡ってみた。最初の石碑は江山寺入り口にある石碑群の中にあるもので、南無地蔵大菩薩と刻まれた石碑だ。年号は享保十二年(1727)とあるがその他の情報は風化により読み取れない。通常このような石碑の場合、地蔵菩薩ではなく西方浄土思想の象徴でもある阿弥陀如来、あるいはそのお題目である南無阿弥陀仏と刻まれた石碑が多いわけだが地蔵菩薩の石碑はあまり見られない。

 次の石碑は江山寺山門石段左脇の六地蔵と並んで立つ地蔵菩薩が載った墓碑だ。この石碑は数年前の「梵字のある石碑シリーズ」でも紹介したこともある。碑は正面中央に胎蔵界大日如来の真言種子である梵字「ア」があり、その周りを25文字の梵字が囲んでいる。この梵字は光明真言という呪文でこの真言を百回唱え土砂を加持し死者の上に撒けばその加持力によって死者のあらゆる罪が滅罪し西方浄土へ往生できるとされる。事実、この石碑には二人の戒名が刻まれ、円形に配置した光明真言の下に、百萬遍とあることから、死者の追善供養として石碑を建立し光明真言の百万遍で成仏を願ったものと考えられる。戒名は到運月溪禪信士、實英姉位禪信女。施主は磯鶏村の二十代大伊綜兵衛。建立年は天保十六年(1844)亥年四月だ。

 次の石碑は山門脇の石碑群の中にある。中央に三陸海嘯横死者精霊、右に明治二十九年六月十五日、左に旧五月五日夕、施主・金浜若者中とある。明治29年の三陸大津波は6月15日の午後7時33分20秒に起きた、北海道から東北、関東に及ぶマグニチュード7.6の激震による津波だ。記録によると地震直後、北方海上から数回にわたり轟音が響きやがて雷鳴のような音をたてて津波が押し寄せ第一波で沿岸の村は津波に飲み込まれた。その後、数回にわたり激震があり朝まで合計7回の津波が青森、岩手、宮城の沿岸を襲った。この津波で旧田老町は336戸が流出、1859人の死者を数えた。宮古で最も被害が大きかったのは金浜、高浜で次いで石崎、飛鳥方、神林、白浜で流出家屋121戸、死者96人だった。石碑は津波の翌年か数年後に死者を弔うため建立されたものだ。

 最後の石碑は江山寺境内の地蔵堂にあるもので、中央に寛政年度義士供養塔、右に明治三十二年(1899)旧七月、左に施主・金浜中とある。しかし、この石碑の寛政年度の義士というのが判らない。明治32年から100年遡ると寛政11年(1799)だ。『岩手県史』によればこの年幕府が南部と津軽両藩に500人を出兵させ函館を防備させたというのでこの兵士たちを義士と見立てて供養したのか、まったく別な仇討ちや改革に対してのクーデターで命を落とした義士を供養したのか真意がわからない。

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