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2008/09 旧花輪村の橋供養塔

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 橋は川を隔てて対岸に渡るための建造物だ。また橋はこちらと対岸を結ぶ境でもあり、不特定多数の人々が往来する公共的なものでもある。そのため橋は古くから信仰対象になり禍の侵入を阻止する塞ノ神の意味も含め供養されてきた。そして石碑は便利な橋を架けた証として、橋が災害等で流失しないよう神仏に祈る媒体として祀られた。今月はそんな橋供養碑を巡った。

 最初に紹介するのは北川目の長沢川に架かる石橋の袂にある橋供養塔だ。石碑は1メートル弱で中央に、橋供養、林宗六世、右には宝暦八寅年(1758)、左に三月廿五日とある。林宗六世とは橋野村(現・釜石市橋野)鶏石山・林宗寺六世であり、宝暦元年(1751)42歳で一念発起し隠居後の人生を宮古・下閉伊沿岸の道路開発と難所開削に捧げた江戸期の名僧・牧庵鞭牛のことだ。鞭牛は延享4年(1747)に林宗寺六世となりこの年に林宗寺を現在の場所に移転させ普山式を挙行、その4年後の宝暦元年には隠居し凶作と飢饉であえぐ村々を廻り独自の宗教観から道路開発の重要性を見極める。元禄を経て享和から宝暦へ向かう江戸中期、10代後半、あるいは20代前半で出家したとされる鞭牛は、寛保2年(1742)33歳で種市村の東長寺の住職となる。そんな鞭牛が一人の宗教家として成長する過程で多くの僧と接触したと考えられ、その中で同時代を生きた船越村大浦で苦行の末に即身成仏した智芳秀全(ちほうしゅうぜん)、宮古(岩泉)門村の不昧庵で即身成仏した悟庵祖了(ごあんそりょう)らが実行した、苦行に耐え生身のまま即身成仏する宗教思想ではなく、相次ぐ飢饉で興廃した村を廻り命ある限り(天明2年73歳没)、道路整備と難所開削に打ち込むことで庶民の暮らし向上を願う宗教思想の昇華を願ったと考えられる。

 次の石碑も鞭牛による橋供養塔で、こちらは南川目の長沢川十三仏登り口の橋の袂にある。石碑はやはり1メートル弱で中央に橋供養、林宗六世、右には宝暦九年(1759)、左に三月十五日とある。

 鞭牛は隠居する数年前から下閉伊、上閉伊をくまなく歩いており隠居する3年前の宝暦2年(1752)花輪村北川目に念仏供養塔を建立している。隠居後は前出の智芳秀全が最初に即身成仏を試みた船越村大浦の大網の岩窟に、血書供養、南無阿弥陀仏碑建立、荒川の穴乳岩窟に母子観音碑を建立するなどして、最終的に花輪村南川目のさびれていた修験霊場を「壇毒山」として復興開山。後の十三仏霊場とする。そして3年後の宝暦8年(1758)から本格的な閉伊街道の道路開発・難所開削に乗り出すことになる。鞭牛が行った土木工事は工事後に建立された石碑の年代、日付からみて複数の場所で数ヵ所同時に着工されており、自身が人夫としてノミを振るいながら現場監督のように各現場を見回り工事を指導したと考えられる。

 次の石碑は、橋供養の文字はなく追分け道標の形になっている。だがこの石碑も無名ではあるが小さな橋の袂にありこれも橋供養塔であると考えられる。石碑は上部に、向テ、左右に、右ハ山道、左ハ往来とあり年代等はない。この石碑がある道は通称・根井沢街道と呼ばれ花輪方面と津軽石、豊間根方面を結ぶ街道として古くから往来のあった道だ。石碑にある往来は根井沢街道、山道は米山神社奥宮がある大笹山(612m)へ向かう道をさしている。

 最後の石碑は閉伊川に架かる花輪橋の花輪側の袂にあるもので、石碑の年代こそ昭和23年だが、近年の花輪橋改修工事を終えて、新たに設置されたものだ。碑には、花輪橋災害復旧工事、主業主・花輪村、着工・昭和二十三年、竣工、昭和二十六年、昭和二十三年九月、アイオン颱風による…と刻まれている。中世から江戸時代にかけて閉伊川は大きく湾曲し現在の板屋地区に回り込み、長雨で増水しては周辺の田畑を荒らした。当時、場所は特定できないが花輪~千徳は渡し船で往来しており、渡し場には関所もあったことから「関門(かんもん)」と言う屋号も残っている。昔から災害をもたらした閉伊川だが、その川幅のおかげで中世の田鎖氏と千徳氏は睨み合ったまま大きな争いにもならず穏便に過ごせたのかもしれない。石碑の碑文から察すると昭和23年に花輪橋はアイオン台風で流出しているから、それ以前に花輪橋は存在している。いつの時代に馬車が渡る程度の橋になったのかは不明だが、花輪村にとって最も重要な橋であったことは今も昔もかわりない。

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