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2008/08 念彼観音力。八月の野仏を巡る

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 今月はお盆の月でもあるし、実際に仏を具象化して刻んだ石仏や野仏を探して各所を巡ってみた。昨年の8月号では田老水沢地区の熊野神社、養呂地の引導場、鍬ヶ崎心公院、津軽石瑞雲寺を巡り如意輪観音にターゲットを絞って紹介した。そこで今回も寺院墓地や市内各所を巡って石仏を探し歩いた。

 最初に紹介するのは宮町の宮古市立図書館裏の石碑群にある仏だ。この石碑群は江戸初期の慶長の津波によって流された常安寺跡で「古常安寺」と呼ばれる場所だ。ここは近年土盛りされ江戸中期の元禄頃から近年のものまで約20基の墓碑が整然と並んでおりその中心に聖観音の石仏がある。仏は聖観音で高さ約1メートル弱、蓮座に結跏趺坐した形で光背はない。仏が乗る蓮座は立方体の台座に固定されており左右に「…権大僧都」などの文字が彫られているが現状では正しく判読はできない。また、台座と仏本体は石質、様式、宗教的約束などが違うことから建立時期は別々と考えられる。おそらく津波で流された寺の復興後にこの地に墓碑などを集合させ全体の追善供養のため聖観音が祀られたのであろうが、常安寺何世の時代に誰が筆頭になってこれを建立したかは不明だ。

 この仏は全体が赤茶色の顔料で着色されており昔から誰が呼んだか「赤仏」または「赤地蔵」と呼ばれて信仰されてきた。どうして仏に赤い着色をしたかはわからないが、赤が魔除けの色でありこれにより厄災をはね返すような御利益を求めたのかも知れない。赤は火や血液、太陽の連想で、一般に「情熱」や「活気」など精神や物事の盛り上がりを表す。墓地入り口の六地蔵に赤いよだれかけを掛けるのも魔除け的発想で、このことから本体が聖観音なのに「赤地蔵」と呼ばれたのかも知れない。

 次の石仏は長根の長根寺旧墓所にある。この石仏は個人の追善供養のため建立されたもので左に元文五(1740)庚申歳七月十四日、右に為・湛水道濯信士(読み不明?)の戒名がある。刻まれている仏はやはり聖観音で蓮座に立つ立像の浮き彫りになっている。

 次の石仏も聖観音で田老地区の日枝神社境内にあるものだ。蓮座に結跏趺坐した姿が浮き彫りになっており、背面がそのまま覆い被さって光背になっている。作風は江戸後期から明治のものと思われるが彫りもしっかりしており、なにより表情が柔和でよい顔立ちになっている。

 観世音菩薩は般若心経の冒頭で読まれるように観自在菩薩とも表現され現世利益を中心に救済を実現する仏として古くから信仰されてきた。聖観音のように座像・立像を単独で祀る他、阿弥陀三尊の脇侍として勢至菩薩とともに祀られる場合もある。観音信仰を説いた「観音経」によるとどのような受難の淵に立たされようとも一度、観世音菩薩の名を唱えれば危険や不幸から逃れることができ、観世音菩薩に帰依すれば「貧」「瞋」「癡」(とん・じん・ち)の煩悩を消しさることができるとしている。また、観音は時に仏陀の姿であったり、インドラ神の姿であったりする変幻自在の仏として民衆を救済するという教えから、六観音、七観音、十五、二十五、三十三観音などの多彩な姿で表現される変化仏でもある。その姿は寺院の本尊が祀られる須弥壇脇などに33体で祀られていたりする。その中で代表的な仏が11の顔の中心に釈迦の顔がある十一面観音、無限の救済の手を差し伸べる千手観音、馬が草をはむように人の煩悩を食い尽くす馬頭観音、自在の運命の輪を回す如意輪観音などだろう。

 最後の仏は一般の方はなかなか見ることのできない浄土ヶ浜の対岸にある「賽の河原」に祀られている子安地蔵だ。この石仏は高さ80センチほどの座像で独特な表情をしている異色の仏だ。仏は地蔵菩薩で胸部分に衣にぶら下がる赤子の意匠を持っている。一説によるとこの仏は上ノ山寺、中里団地(元夏保峠)、常安寺の各地蔵と兄弟であり、霊鏡和尚が建立したということになっているが真相はわからない。特に浄土ヶ浜の地蔵は他所の地蔵の意匠とまったく違うもので、後年に風化で立て替えられたとしても霊鏡に関連づけるのは無理があるような気がする。また、昭和40年代浄土ヶ浜の観光客集客が落ち込み途方に暮れていた時、子安地蔵の首が欠落していることが判明、修復したところ観光客が増えたという逸話がある。

 写真は15年ほど前、春の子安地蔵縁日に参詣する老婆たちに同行し対岸に船で渡り撮影したものだ。

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