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2008/07 半ズボンは都会っ子みたいでしょーすー

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 僕の少年時代は現在のように学校指定ジャージなどがなかったので小学生は毎朝私服で学校に通っていた。あの頃は時代で言うと昭和40年代あたりで西暦なら1970年代だ。世間は戦後の復興から高度成長したとかで日本人の暮らしは文化生活へと急変したとは言え、まだテレビは白黒で、即席ラーメンが珍しく、缶詰の「ツユコ/つゆ」をご飯にかけて喜んで食べたり、練炭コタツで「クヅスタ/靴下」に穴をあけ、学校のギョウ虫検査ではクラスの大半が陽性で、出べそや「ボーパナ/青鼻」を垂らした子供がそこらじゅうにいた時代だ。そんな時代だから服はほとんど「キタキリスズメ/いつも同じ服・舌切り雀の語呂合わせ」で、それも兄弟姉妹のお下がりであり、膝や肘につぎあてをした「ストネダラケ/つぎだらけ」の服を着ていた。 当時の男の子は腰にゴムの入った化繊のズボンに、上はランニングシャツにやはり化繊の上着だった。冬はその上に母親が「アミキ/家庭用編み物機械」で編んだ「ケード/毛糸・ニット」を着て、「アノラック/登録商標」と総称される防寒着を羽織った。母親手製の「ケード」はやはり兄や父などの「ケード」を「ホドイデ/解体・糸をほどく」再生したものだから、胴部分と腕の色が違うとか、毛糸の残量の都合で前と後ろの模様が違うのは普通だった。「アノラック」はナイロン生地で化繊の中綿をキルティングしたような素材で、袖、襟はニット、前合わせはホックやチャックだった。「アノラック」はその素材の性質上、空気は遮断するが熱に弱く、ストーブなどの熱源に触れると「メラメラド/簡単に」穴があいた。特に当時の小学校は冬になると薪ストーブだったもので、教室で「ハネバダグ/暴れる」男の子の「アノラック」は煙突に触れて穴だらけだった。

 夏はやはり化繊のズボンに上はランニング一丁だ。特に昭和30年代生まれとしては、いくら「ハグラ/日射病」をしそうなぐらい暑い日でも男の子は半ズボンをはかなかった。当時の男の子の意識の中には「半ズボン=都会っ子=ひ弱=オナゴメーコ(なよなよしたオトコオンナ)」という独特の偏見があった。だからどんなに暑く、親に今日は半ズボン「ヘーデゲ/はいて行け」と「サベラレデモ/言われても」「サリムリ/無理して」長ズボンをはいて学校に行った。学校に行くとあまりの暑さに何人かが半ズボンをはいていると、休み時間に押し倒してみんなで両脚を引っ張りズボンの股から「ツンポ/ちんちん」が見えるぞと冷やかした。しかしこのような風潮もいつしか廃れ、いつしか男の子も堂々と半ズボンをはくようになった。今、振り返るとズボンの長さの差はアニメ「ドラえもん」のジャイアン、スネ夫、のび太の主従関係に似ており、男の子たちはたえず大人に憧れ、群れの中で力を誇示するためにも女子のように脚を「サレーダステ/晒して」しかも、幼児に逆行するような半ズボンを否定したのだろう。

 ところで宮古弁では簡易に着る、あるいは素肌に「ヒッカゲル/はおる」服のことを全般に「シャッツ/シャツ」と呼ぶ。だから前出の「ランニング」は正しくは「ランニング・シャッツ」だ。これと同様に「ハンソデ・シャッツ/半袖シャツ」「ナガソデ・シャッツ/長袖シャツ」もありだ。しかしさすがに「Tシャッツ」とか「ポロシャッツ」とは言わない。それらより上に着る、または外出時に羽織るような服は「ウワッパリ/上羽織」と呼ぶ。これは着物文化の名残で「羽織」が和装であることを意味する。

 さて、一昔前は、現在のように3枚で、5枚で…というような格安の衣料はなく、1点買いだったから衣料品は割高だった。そのため痛んだりほつれれば修繕をして再利用した。ズボンなどは親の想像を絶する過激な遊びをするものでいつも穴だらけだった。そんなズボンに母親がミシンで「ストネ」をしたのはいいが、手頃な色の布がなく、赤い継ぎ当てだったもので学校で「サルノケッツ/猿の尻」と冷やかされ悔しい思いをしたこともあった。

 僕は一人っ子で兄弟がいなかったから、アニキのお下がりでよれよれだがちょっと大人っぽい服を着ている友人が羨ましかった。そんなある日、友人が「スラッツァゲダ/色落ちした」ジーパンをはいて学校に来た。聞けば中学の兄のお下がりだという。ベルトは「メメズ/ミミズ」のように細く垂れ下がっていたがそれがまたカッコよかった。その頃は早くも髪に整髪料をつけてくる「ヒナリッコ/おしゃれさん」の友人もおり、男の子たちは「子供」から「少年」そして「大人」へと背伸びをしたい頃だったのだろう。

 事実、あの頃ジーパンと呼ばれるズボンは大人への入り口だった。遅ればせながら僕もその扉を開けるべく市内の某衣料品店でインディゴブルーのジーパンを買った(ちなみに後ろのマークに「Gパン」と書かれていた・メーカー不明)。期待感いっぱいで家に帰り両脚を通し、いつも使っている細いベルトで腰を絞る。「うん、カッコいい。今度、バンド屋(松本旅館前のベルト専門店)で厚いバンド買おう」などと考え、その日は一日中うかれ気分で過ごした。そして夕食後、風呂に入るためジーパンを脱いだところ、なんとパンツから内股まで群青色に染まっていた。僕は一瞬、驚いたが「ああ、新しいジーパンってこうなんだ」と納得し、勝手にひとつ大人に近づいた気になったのだった。

懐かしい宮古風俗辞典

【いんぼーとーれー】
幼児に対しての痛み止めの呪いとして唱えられた呪文。地域によって後半の歌詞が変化したり、呪文の最後に別の呪文が付け加えられていることもある

 子供が転んだり、手足をぶつけたりして泣きながら痛がっているところへ、祖母などが駆け寄り患部をさすりながら摩訶不思議な呪文を唱えた。これは難解かつ耳触りの良い語句を経文風に並べて、痛がる子供の意識を引きつけ痛みを忘れさせるプラシーボ効果を狙った呪いだ。基本になる歌詞は「いんぼーとーれーかーらぐまんぜぇー、はったきはねれば、からすがよろごぶ、いでーのいでーの、むげーばまさとんでげー」と思われる。最後の「むげーばま(向浜)」は「とうぐのやま(遠くの山)」に変わることもある。で、この歌詞の意味だが、出だしは恐らく「遠方、到来」「かーらぐ万歳」「はったぎ(イナゴ)跳ねればカラスが喜ぶ」「痛いの痛いの~に飛んで行け」だろう。この中で意味不明なのが「かーらぐ」だ。これがストレートだと「カラグ/辛く」だが、これは四奉請(しぶしょう)という仏教関連の言葉で詳しくは「偈文(げもん)」という呪文の語尾で「華楽(かーらく)」と思われる。これは古い時代に、全国を流浪した六十六部衆などが伝え残したとも考えられる。いずれにせよ子供は怪しく不思議な呪文を唱える、祖母に普段とは違う姿を見て、痛いという感覚が薄れるのであった。

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