Miyape ban 01.jpg

2008/01 市内の西国順禮塔

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

 このコーナーでは5、6年前に故・沢内勇三著の『お伊勢参り』を参照に市内各地の西国順禮塔や神社仏閣拝礼塔を紹介したシリーズを連載した。その時は石碑建立の逸話や特徴などは比較的あっさりと紹介し江戸中期から末期にかけての旅の特徴を主体に原稿を進めた。また、当時は石碑のコーナーのスペースも少なかったためかなりの部分で取りこぼしや割愛した部分も多かった。そんな経緯もあり今回は市内にある西国順禮塔の中でもかなり特徴的なものを紹介してみようと思う。

 最初の石碑は五月町と西町と小沢の堺に建っている。堺などと言えば大げさだがこの付近は小沢二丁目であり、西町や泉町などがまだなかった時代の黒森神社登り口だった所だ。当時周辺には黒森参詣のための宿坊もあったと言われ、周辺には昭和50年代頃まで稼働していた鉱泉を引き込んだ湯治場もあった。石碑は高さ180センチほどで中央に西国順禮塔、右側面に文化七庚午年三月三日(1810かのえうま)とあり、改行して常尓書とある。常尓は人物名で駒井常爾(じょうに)のことだ。「尓」は「爾」と同意の文字で中国語の漢字表記である「繁体字」と「簡体字」にあたる。前者は画数を少なくした簡略漢字、後者は文字の象形を生かした画数の多い複雑な文字ということになる。駒井常爾は寛保2年(1742)に京都に生まれた。滋賀県高島市安曇(あど)川町北船木の近江商人・駒井家の出とされ、明和6年(1766)父の死後、同郷で奥州宮古に根を下ろして商売を営んでいた伊香権兵衛をたよって24歳の時に宮古へ移り、その後質屋、酒屋などを営んだ。家業が軌道に乗ると商売を使用人に任せて自らは書と漢学の道に励み、晩年京都へ戻り文化11年(1814)に没したという。この石碑はそんな駒井常爾が晩年に奉書している。この石碑建立時に常爾が宮古におり奉書したか、あるいは順礼一行が西国の地で常爾と再会して一筆頂戴したのかは不明だ。台座には坂下文左衛門、佐々木和吉他9名の連名がある。駒井常爾は横山八幡宮の神歌碑などに関係しておりこれについては昨年の8月号本誌特集「宝暦ルネッサンス」で詳しく説明しているのでそちらを参照にしてほしい。

 次の石碑は山口の如意山・慈眼寺参道にある西国順禮塔だ。石碑は230センチの巨大なもので中央に西国順禮塔、左側面に文化三丙寅歳仲春吉辰当村中、改行して駒井成稚書之とある。この人物も近江商人として宮古へ入った駒井系統と思われこの名前の読みがおそらく「じょうち」と思われる。前段の明和年間に宮古へ入った駒井常爾の名前読みが「じょうに」であり、どちらも石碑、しかも同じような年代に西国順禮塔に奉書しているわけで、なにやら因縁というか作為的な仕掛けを感じてしまうが、駒井成稚という人物の詳細は不明だ。また、駒井常爾を現在の当用漢字として読んで「じょうじ」と読む場合もあるが、当時漢学に傾斜し常に中国を意識していた常爾は中国風の読み方にこだわっていたろうし、その繁体字が「尓」であり石碑にもこの文字を使ったあたりから名前の読みは「じょうに」が妥当と思われる。この石碑の裏側には昭和61年11月に西国順禮塔他3基の石碑を道路拡張工事のため畠山宅入り口にあったものを慈眼寺に移転したことが記されたプレートがはめ込まれている。慈眼寺住職によると現在の黒森神社大鳥居付近にあった石碑を移転したものだという。  次の石碑は西国順禮塔としては宮古市内で最大の大きさを誇る藤原観音堂横にあるものだ。高さは310センチで西国順禮塔という文字もかなり大きく彫りも深い。右側面には文化二乙丑歳(1806きのとうし)、改行して季秋吉辰建之とある。ここまで見てきた文化年間の西国順禮塔はどれも大きく、著名人の書を使ったりしていることから西国への旅が活発化したのに加え、その証として建てられた石碑も大きく建立者たちの資産の大きさとステータスを物語っていると考えられる。

 最後の西国順禮塔は近内の旧薬師神社参道に並ぶ石碑群の中にあるもので高さは240センチだ。中央に西国順禮塔、右に文政十一戌子年(1828つちのえね)、左に九月十七日とあり、台座は半身土中に埋まっているが十数名の連名と、千徳石工勘兵衛の名がある。この石碑の特徴は碑文の「順」の「川」部分が他の字のバランスに比べて極端に小さいことだ。この書は当時の長根寺住職・祐禅法師によるもので、この意匠は近内川の氾濫を鎮める目的の呪詛とされる。しかしこの石碑が建立された翌年、近内川は氾濫し大被害となった。人々は和尚の「川」の字が逆に大きかったら…と憤慨したと伝えられている。

 この他にも市内には変わった意匠や逸話、著名人が奉書した西国順禮塔がある。これらも機会があれば再度紹介しようと思っている。

表示
個人用ツール