Miyape ban 01.jpg

2007/09 田老地区の牛馬供養塔

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

 2年前の暮れに田老町・新里村・宮古市合併に伴って合併前の田老町を散策し藩政時代からの田老町について特集で紹介した。田老町の紹介といえば津波災害と田老鉱山がメインになりがちだが、飢饉や三閉伊一揆などからアプローチすると違った側面が見えてくる。また幕末にかけて、盛んに製造された名産の干鮑や、私塾などの教育面も特筆するものがあった。また、将来的に田老町も宮古市となるわけだから、田老町に点在している石碑も少しずつ紹介しようという意味合いもあり各地区の石碑も散策した。田老町は津波被害に遭っているためほとんどの石碑は流失しているが、それでも山間部などにはユニークな石碑が残されており宮古とはまたひと味違うパターンもあった。

 そこで今月は2年前の散策で撮影はしなかったけれど気になっていた石碑を中心に紹介しよう。

 まず最初に紹介するのは摂待の北尾岳地区の石碑群の中にある大威徳明王だ。北尾岳は「きたおだけ」と読み、摂待地区の北側の峠で、現在は国道45号線のトンネルとなっている付近をさす。北尾岳に対して反対側は南尾岳(みなみおだけ)と呼ばれ古くは摂待地区に入るための峠道だったという。現在は海側を通る国道45号線で摂待地区へと入るため旧街道は意識するすべもないが、水沢地区から摂待へ入る国道は急斜面に貼り付いた急勾配の道であり、開削がかなり困難だったことを物語る。そのため旧街道は大きく西側に迂回し南尾岳の峠を通っていたのだろう。

 さて肝心の石碑について見てゆくと、中央に寝そべった牛の上に乗る武器を持った憤怒神が浮き彫りになっている。この神が五大明王のひとつである大威徳明王だ。五大明王は不動明王を中心として、東に降三世明王(こうざんぜみょうおう)、南に軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)、北に金剛夜叉明王、そして西に大威徳明王を配置した仏敵を威嚇し、攻撃するひとつのフォーメーションとも言える。大威徳明王は三面六臂六足で、頭上には髑髏が連なり火焔を背負って水牛に乗る姿で表現され、別名は地獄の閻魔をも調伏する法力があるというので降閻魔尊とも呼ばれる。

 そんな大威徳明王利益は戦勝祈願がメインとなるが、民間信仰の中では牛(水牛)に乗るその姿で表現されることから農牛神として信仰された。写真の大威徳明王も難しい密教の教典を元にしたものではなく北尾岳の峠を通る牛馬の安全を祈願するため建立されたものだろう。石碑右側には明治十九丙戌年(1886ひのえいぬ)、左側に七月十八日、中央に牛馬安全、台座正面に願主・畠山長之助とある。

 次の石碑は大威徳明王の隣にあるもので大威徳明王と同様に摂待村の畠山長之助という人が同年代に建立したものだ。石碑正面には三面六臂の憤怒尊が浮き彫りになっており、旧田老町教育委員会発行の『田老古碑』によればこれも大威徳明王と記載しているが、本誌の見立てでは同じ仏尊を同一人物がしかも同じ年に建立するとは考えられず、大威徳明王に対してこちらの仏尊は馬頭観音だと思われる。 馬頭観音は石碑になると通常は文字で表現され、その本体を目にすることは少ない。馬頭観音は三面六臂の憤怒尊で表現され中央の頭に馬の冠を載せている。名前の由来は馬が一心に牧草を食べるように人の煩悩を喰らい焼き尽くすというもので、温厚な姿で表現される変化観音の中で最も異色な仏でもある。民間信仰ではその名から馬の守り神とされ多くの石碑が建立され、私たちが最も目にするメジャーな石碑でもある。

 次の石碑は仏尊を浮き彫りにしたものではなく直接仏尊の名を刻んだもので、田老の青野滝地区の加茂神社にある。碑は中央上部に梵字「キリーク」があり、中央に大威徳明王、右に牛馬安全、左に昭和六年(1931)旧六月吉日辰、願主・吉水石太郎建立とある。梵字「キリーク」は当然ながら大威徳明王を一文字で表すもので、この他に千手観音や釈迦如来などの意味もある、広い解釈の梵字だ。

 最後の石碑は田老越田地区の石碑群の中にあるもので、中央に牛馬供養塔、右に文久四年子年(1864)、左に二月吉日、右下部に施主、伊兵衛、伊三郎とあり、台座には風化しているが右に牛、左に馬の素朴な浮き彫りがある。

 耕作面積が少ない田老地区に多くの牛馬供養の石碑がある理由は、農耕もさることながら各浜で大量に製造された塩を内陸部へ運ぶための運搬手段として多くの牛馬が使われたことによる。

 当時の塩は海水を煮詰めて製造するが、その際に多くの燃料となる薪が必要なため燃料の手配は代官所の許可が必要だった。そのため塩は藩政時代から専売となっており相場は厳重に操作されていた。岩手県沿岸では野田村の「塩の道」が有名だが、沿岸の漁村ではどこの地区も「塩炊き」と称して製塩を行っておりそれを内陸へ運んでいる。そんな塩の街道に今回紹介した牛馬安全の石碑が建っているものと考えられる。

表示
個人用ツール