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2007/09 今は無き小山田の銭湯・上ノ湯のこと

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 中央通りの福の湯が「ブッカサレ/解体され」駐車場になってからもうどのぐらい経ったろう。2004年8月号の本誌特集で市内の銭湯を紹介した時は福の湯を含めて8軒が営業していた。そして最近になって「スパラグ/しばらく」休業していた宮町の銭湯も復活することなく「ブッカサレ」アパートとなった。庶民の社交場として銭湯が賑わったのは高度成長の時代だ。宮古でもそんな時期、銭湯の数はピークに達してなんと19軒もの銭湯がひしめいていたという。しかし、その後時代の変化と伴って、家庭風呂の普及、アパートなどの風呂完備も相まって銭湯は全国的にも減少傾向になった。近年は健康ランド的大型施設も進出する中、銭湯の生き残りは年々厳しい時代となっているらしい。

 高度成長時代に突入した昭和33年生まれの僕は、家庭の事情で幼い頃から市内を転々として色々な人に「カデラレダ/面倒を見てもらった」ためか、緑ヶ丘の「緑湯」鍬ヶ崎の「第二不動園」築地の「友の湯」旧舘の「吉野湯」藤原の「松の湯」小山田の「上の湯」など色々な銭湯に通って育った。中でも小山田・上の湯は、僕があけぼの団地にいた小山田保育所時代から小学校4年までの約6年間通った懐かしい銭湯だ。ちなみにこの頃はラサ工業の社宅にも風呂がなかったためラサの組合が経営する銭湯もあり、上の湯が休みになると僕たちもラサの銭湯へ行った。その銭湯はラサの社員の家族は格安で入浴できて、部外者は通常料金だったはずだが詳しい入浴料のシステムとか銭湯の名前は覚えていない。

 上の湯は現在の大型店舗マリンコープDORAの西側の住宅地の中にあって今でも当時の面影が残っている。あけぼの団地は現在の総合福祉センター敷地内にあり、僕の記憶では一棟二階建て4世帯のモルタル住宅が12棟ほどと、三階建て12世帯住宅が2棟、この他に平家の4世帯住宅もあり、今は広くなった堤防の道路から見下ろすとよくもまぁあんな「セメケェ/狭い」場所にたくさんの住宅があったものだと感心し、同時にあの時代、「オラガエー/僕の家」も含めてそこにいくつもの家庭が存在した事実に郷愁を感じる。住宅は水洗浄化槽付の三階建てを除いて風呂の設備がなく団地の「ヒタヅ/人たち・住人」は必然的に上の湯を利用することになる。僕が住んでいたのは10号棟で小さな公園の向かいだった。銭湯へ行くのは夕食を終えてからというのが多かったと思うが、きっと親たちが観るテレビの番組によって変動していたと思う。あの頃は特にNHKの大河ドラマが凄い人気で、いつぞやの日曜の8時過ぎは45分まで上の湯はがら空きだったのを覚えている。

 父親の勤務時間が不特定だったので、銭湯へは母親と行くことも多かった。夏など夕方頃に銭湯へ行こうと母親の後ろを歩いていると外で遊んでいる友だちと会う。「オメー、マァーダ、オナゴブロサヘーッテンノガーヨー/お前、まだ女風呂に入ってやがんのかよ」「…オラ、フロサイグンデネェガヤ/オレは風呂に行くわけじゃない」「ンダラ、ナンダーヤ、ソノ、オモチャハ/なら、なんだいその手に持ってるおもちゃは」「…ウルセェ、ベヅニイイベェーガ/うるせぇ別にいいだろう」「イェー、イェー、アキーハ、オナゴブロサヘーツォー/やーいやーい、アキー(僕のあだ名)は女風呂に入るぞ」などと「ノラカサレル/冷やかされる」こともあった。いつであったか、そんな調子で「ノラカサレデ」しまい僕は意地になって風呂に入らず帰り母親に叱られたこともあった。

 しかし、そんな風にして銭湯というものは子供でも自然と男女の性の区別がつくようになる。つい先日まで「ビレコワラス/甘えん坊で」母親と入っていた女風呂は二度と足を踏み入れてはいけない遠い世界なのだ。ほんとうに小さくてくだらない世界なのだが、そこには子供なりに男の世界があるのだった。しかし逆に父親が自分の娘を連れて男湯に入ってくるというのも結構あって、同級生の女の子などが無防備で入ってくると男の世界も何もあったものではなく、何故か少年たちは横目で確認しながら意気消沈するのだった。

 小学校3年ぐらいになると銭湯は家族ではなく友だちと行くようになる。究極的には銭湯が遊び場と化すわけで真っ裸の少年たちは洗い場をフィールドに様々な遊びを考案した。洗い桶に「ケッツ/オシリ」を入れて「フロキッツ/湯船」を両足で蹴って滑りまわりながら「ツヅギオニコ/続き鬼」をしたり、誰かの石けんをパックに見立ててホッケーをやったりした。次いでシャンプーなどの空容器に水を入れての水鉄砲ごっこだ。そして最も注目されるのが船や潜水艦のプラモデルで遊ぶおもちゃ遊びだ。当時マブチというメーカーから水中モーターという電池式防水モーターが販売されていて、それをプラモデルに装着して湯船の中を走らせるのが流行って、高学年が持参する潜水艦や軍艦に憧れたものだ。

 遊びにも飽きて「キッツ」に腰掛けていると隣の友人が「オメーノ、クレーナー/お前の黒いな」とか「オラ、ムゲッツォ/オレは剥けるぞ」などとお互いの身体の違いを確かめたり比べたりもする。そんな時、誰が言ったか「タマガ、ウゴイデル/玉が動いている」と言うので、自分のをはじめみんなの睾丸をつぶさに見比べるとなんと、左右の睾丸は煽動しながら上下運動しているではないか。おお、そうだったのかココは単にぶら下がっているのではなく微妙に動くんだ、と大発見してみたり。最近やたら前を隠す同級生の兄はなにやら「ケッコ/毛」が生えてきたらしいというので、それを確認するためジロジロ見ていたらゴツンとやられたり、みんなではしゃいでいたら背中に絵を入れたオジサンに「スラウルセェ、コノ、クソガギガドーニカガッテァ/うるさいこのくそガキたち」と怒られてシュンとしたり。

 たしかあの頃、銭湯料金は子供が15円だった。男湯と女湯の壁を石けんやシャンプーが飛び交い、洗い場の場所取りでご近所同士がもめたりと銭湯には独特の喧噪があった。

 風呂上がりに暖簾を潜ると目の前は一面田んぼ。青緑色のホタルが飛び交いその向こうに精錬所のオレンジ色が光っていた。そんな小山田の銭湯の思い出がある。

懐かしい宮古風俗辞典

【すてでんぎ】

 片足飛び。草履の鼻緒などが切れて片足で飛びながら移動すること。関西圏では「けんけん」と言う。

 草履の鼻緒が切れたり、履き物が壊れたり、あるいは最初から片方のみしかない履き物で片足飛びする様を何故か「ステデンギ」という。片足飛びを「ステデンギ」と呼ぶのは岩手県でも宮古下閉伊(川井村を除く)と二戸地方で、その他の地区では「ケンケン」が変化した訛りとなっているようだ。地区によっては「ステデンギ」「ケンケン」のどちらも使う場所もあるが、なかには「ステデンギ」と「ケンケン」が融合したような「スケンスケン」「スケンケ」などの訛りに変化している地域もあり、方言使用範囲を安易に限定することは出来ない。これはマブタに出来る「ガンベ/おでき」を「ノメ」と呼ぶ地区と「バガ(麦芽)」と呼ぶ地区があるのに似ており、「ステデンギ」もひとつの方言が通過し流れ着くという方言分布地図の素材として新たな発見の可能性を秘めている。ちなみに子供の遊び「ケンケンパ」は「ケンケンパネ(跳ね)」が変化したもので、源流は平安時代の片足でやる相撲のような押し合いごっこに由来するらしい。

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