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2007/06 蟇目八坂神社の石碑と石宮

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 宮古市が合併して石碑や神社の守備範囲が広くなったけれど、石碑や神社などはかなりアンダーな部分で地域の歴史と共に歩んできたものであり、その存在理由や信仰形態はかなり根が深く片手間の取材で紹介できるものでもない。だからと言ってローカルな信仰媒体の詳細や歴史が文字となってしっかり記録されているわけではなく、その場所へ何度も通って聞き込みをしながら地道に調べて推測するしかない。結局は神社や石碑に関しては市町村合併なんて関係はなく、旧宮古市エリアでも新エリアでも調べる作業は昔と同じということになる。苔むした石碑をなぞり年号をメモしたり、奉納された狛犬や石の手水鉢にある崩し字の名前を読んでみたり、朽ち果てた棟札を調べてみたり…そんなことを僕は十年以上も繰り返してきたということになる。

 さて今月は蟇目地区、飛沢(とぶさわ)の八坂神社境内の石碑を紹介しよう。この神社は合併関連の特集のため数年前取材で訪ねたときは社が取り壊されていたが、一昨年あたりに改築が終わり現在、瓦吹きの立派な社殿が建っている。社には安政三年(1856)の額を彫り直した新しい額が掲げられ「白山」「天王」「山王」とあることから、江戸末期にはすでに三社が習合されたいたと考えてよいだろう。

 八坂神社と言えば祇園祭りで有名なの京都八坂神社を思い出す。京都の八坂神社は京都市東山区祇園町にある神社で全国に約3000社の分社があるという比較的ポピュラーな信仰媒体だ。

 八坂神社の信仰は元来、夏の疫病避けのためで、有名な祇園祭もこれに準じており疫病をまき散らす悪神を、より強力な悪神で祓い落とそうとする牛頭天皇を御神体としている。蟇目の八坂神社も地区の人達によると古くは「てんのうさま」と呼んで崇めたというから古くは牛頭天皇として祀られていたことが伺える。

 この神社の境内には2基の石碑、2基の石卒塔婆、1基の石宮、1基の石地蔵がある。この中で最も不可解とされるのが石卒塔婆だ。神仏の区別がなかった時代に神社境内に墓などがあるのは不思議ではなく、この神社の石卒塔婆や地蔵などはそんな信仰から建立されたものだろう。さて2基の卒塔婆のひとつは幅40センチほどのものでコンクリートで台座に固定されている。問題なのは巨木に寄り添うように建っている幅25センチほどの細長い卒塔婆だ。この卒塔婆にある年号はとある資料によるとなんと今から700年以上前の元弘3年(南朝1333年・正慶2年北朝)だというのだ。1330年代と言えば14世紀であり鎌倉時代末から動乱の南北朝時代、時の政権はあの有名な後醍醐天皇だ。時代的には後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し天皇親制政治の復活として発布した「建武の新政」が建武元年(1334)だから八坂神社の石卒塔婆はその前年の年号があるというのだ。これが事実なら宮古地区だけでなく下閉伊から岩手県を含めてもかなり古い石碑ということになり歴史価値は相当なものだ。しかしながら、その表面には文字らしき痕跡はなく、いつ拓本がとられ誰がその年代を提示したのかは今となっては判らない。(この石卒塔婆に関しては後日調べてみることにして今回、このコーナーでは触れない)

 それではまず最初の石碑からだ。石碑は中央上部に日天を表す円があり庚申供養塔とあり、左に安永七戌戌(1778つちのえいぬ)下部に人名と思われる星惣□、左に二月二十九日、石切・孫十□、甚□□とある。石碑は台座がないため直接下部が土に埋もれており人名の下部分は見えない。この石碑の隣にも台座のない石碑があり、こちらは宝永七(1710)の年号があるが、その他の文字は彫りが浅く所々しか判読できない。旧新里村の資料によるとこの碑が養蚕供養塔だというが見た感じではそれらしい文字はないように思う。

 次は社殿右脇に建っている石地蔵だ。この地蔵の台座には奉納した人の名や年代がある。台座正面には縦書きで念佛とあり下部に横書きで供養とある。右側には宝暦十三(1763)とあり、左側に施主・周□、清在衛門とある。地蔵は首や腕などに補修の跡があり大切にされてきたことがわかる。

 最後は社殿左脇にある石宮だ。この石宮は石の祠になっており製作当時は厨子のような形状で内部に御神体などが入っていたと考えられるが、現在は外側の石宮部分しか残っていないため、何の信仰に対して奉納されたものなのか、あるいは他所で祀られたものがこの神社へ流れ着いたものなのかまったくわからない。石宮右には嘉永七年(1854)寅年三月十四日の年号があり、左側には施主、当村中、初之介、粂蔵(くめぞう)、万之介、福治とあり、なんと下部に亀のロゴマークと石工亀治の名がある。

 石工亀治は「亀治」「亀次」の名を使い分けて石碑や石宮、狛犬、手水鉢を作った江戸末の石工で、市内に十数基の作品を残しており今回は久しぶりに新たな亀治作品発見となった。石工亀治の石碑だけを追ったシリーズは1993年に1年間このシリーズで連載し、後数回、亀治の石碑を発見した度に紹介した。記憶では最後に発見した石碑が川井村箱石の好心寺であったがこのシリーズで取り上げたかどうかは記憶にない。

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