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2007/03 和井内地区石碑巡禮その1

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 10年ほど前に宮古下閉伊にある滝を巡る特集をやった。人里離れた深山幽谷の滝で撮影機材をロープで下ろすなど困難を経験した。が、そんな中で少しだけお手軽な里の滝もあり熊出没や落石などの心配もなく撮影したことを覚えている。 そんな印象深い滝の取材だったが、当時の新里村和井内平片の滝を取材した帰りに変わった供養塔を見つけた。その時は滝の取材が先行していたため詳しく調べなかったが、今回その石碑が気になり新里地区和井内へ向かった。

 最初に紹介するのは気がかりだった問題の石碑だ。石碑は高さが約1.5メートルほどで、中央に百万兵衛、左に平成四年四月一日小田島コウ建立とある。碑は平成になってから建立された近年のものだ。そして僕がずっと気になっていたものがこの石碑の横にある「番車佛」という不思議なオブジェクトだ。これは約2メートルほどの直方体の石の柱で中央がくり抜かれ石の車輪が組み込まれている。この車輪中央は左右から石の軸で固定されており、汲み上げ井戸の番車(滑車)のようになっていて指で回すことができる。おそらくこの形状はチベットなどで筒型の教典を回転させて読んだことにする「マニ車」や、大きな数珠を経文を読みながら大人数で回すような意味をもち、この車輪を回しながら百万編の経文を唱えたものだろう。ちなみに碑は「百万兵衛」となっているが石碑群の下を流れる平片川の上流が源兵衛平であることからの当て字と思われる。

 碑を建立した小田島という人について現地で聞き込みをしたところ盛岡在住の宗教家ではないかとされるが、はっきりしたことは不明だ。また小田島という家は藩政時代の南部藩役人だった伴氏の末裔であり、伴氏の知行地がこの石碑がある和井内だったというから、小田島という人がこの地にこだわって石碑を建立したのには訳がありそうだ。

 次の石碑は百万兵衛、番車佛がある石碑群の中にあるもので隠し念仏に関係した石碑2基だ。まず1基目は上部に横書きで四百四十年記念とある、恵燈大師の追善供養碑だ。恵燈大師と刻まれた右に中川良八、左に内藤久太郎とあり、台座には右から発起人・平片弥右エ門、一味講中建立、祭日三月二十四日とある。

 中央に刻まれた恵燈大師とは浄土真宗本願寺を中興し現在の礎を築いたとされる蓮如(れんにょ)の謚(おくりな)だ。蓮如は室町時代の僧であり後の本願寺第8世で生前4人の妻と死別し5人の妻と男子13、女子14の子を持ったことでも知られる。この碑は蓮如が没した明応8年(1499)から440年経った昭和14年(1939)に建立されたものと考えられる。これは仏教における先達の高僧を意味する祖師を敬う意味があり、先月号でも紹介した根城舘の下の石碑群にある「蓮師四百回忌」の碑と同等の意味で建立されたものと思われる。この碑の左右に名前がある中川氏と内藤氏は明治から昭和初期にかけて下閉伊地方で積極的に浄土真宗の布教活動を行った人で、中川氏が盛岡、内藤氏が川井村鈴久名出身だったという。これらの信仰は盛岡から川井、新里を経て宮古へ入り近内を経て田代地区で熱烈に信仰された。この信仰は加熱し明治33年(1900)当時紫波町日詰にあった真宗大谷派永光寺の田代地区移転へとつながる。また、台座に発起人として名がある平片弥右エ門という人は幕末の大規模一揆である三閉伊一揆に関係した人物で、田野畑から南下してきた一揆に加わり仙台領まで農民を先導した人物だという。

 次の1基も浄土真宗に関係したもので中心に見眞大師、右に明治四十四年(1911)十一月廿八日、左に六百五十三回一味講中とある。見眞大師とは親鸞上人の謚であり、没後653年の年に建立したという意味になる。

 番車佛のある石碑群にはこれら隠し念仏に関係した石碑の他、念仏供養塔、牛供養塔、愛宕神社、十和田山神社、気比神社、養蚕神社など、江戸末期から明治期の石碑があり、この道が有芸を経て岩泉へ向かう旧街道であり昔の一里塚や目印のようになっていた場所と考えられる。

 次の石碑は冷泉が湧く安庭沢(あでのさわ)にあるもので、中心に岩山水神、右に嘉永七□(1854)、左に□吉日、下部に願主古館孫之丞とある。この碑は和井内から刈屋川を渡り、害鷹森から流れる安庭沢と猿舞山から流れる俗称「あんにゃの沢」の合流する富金橋の場所にある。付近の民家の屋号は「カナホッパ(金堀場の意)」であり、事実、小規模ながらガラスの原料となる珪石の採掘が戦後まで続けられていたという。

 伝説によれば片平に草庵を結んだ牧庵鞭牛は滝に住み通行人や若い娘を襲う妖怪を法力で調伏し、その後安庭沢に入り薬効がある鉱泉を発見、里人のため安庭の沢に道を作ったとされる。しかしながら別説では怪我をした動物(金色の鶏、雉)が傷を癒すために浸かった不思議な水を発見した人がこれを引き寄せ鉱泉として湯屋を経営したという説もある。 これらの伝説には安庭沢が昔から何らかの鉱物を採掘した鉱山であり、沢では砂金などが取れたことを示唆している。鞭牛和尚はこれら鉱脈を調べるため安庭沢に入ったのかも知れない。

 現在安庭沢には安庭山荘という入浴施設がありシーズン中は入浴客らで賑わっている(冬季閉鎖4月より営業)また、源泉に建っていた昔の木造ランプの宿・金鶏荘は数年前に撤去され、現在薬師神社や石碑のみが残るだけだ。

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