Miyape ban 01.jpg

黒森神社

提供:ミヤペディア
2012年12月26日 (水) 08:53時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版

移動: 案内, 検索

黒森神社の祭神は、須佐之雄命、大巳貴命、稲田姫命である。神社の社殿は、嘉永3年(1850)に再興されたものだが、江戸時代の資料には、建久元年(1190)の棟札があったという記録が残されている。現存するものでは、建武元年(1334)の鉄鉢、応安3年(1370)の棟札があり、この当時あるいはそれ以前から黒森神社(黒森大権現)の信仰があったといわれている。社殿は、平成2年(1990)7月に市の有形文化財(建造物)に指定されている。社殿の奥には御祖父杉、御祖母杉という杉の老樹がある。御祖父杉は枯死しているが、平成2年(1990)10月の樹医の鑑定結果では、御祖母杉は6~7千年位、また境内の杉も千年位の樹齢とされている。また、黒森神楽と密接な関係があり、廻り神楽の舞い立ち(1月3日)は、黒森神社の社殿前で行われる。

【参考資料】宮古のあゆみ:宮古市(昭和49年3月)黒森神社パンフレット

テンプレート:しるしる

目次

黒森神社に奉納された鉄鉢

建武の鉄鉢の名で岩手県指定文化財として指定されている直径約50センチほどの鉢。使用目的ははっきりしていないが、供物や賽銭を入れたものであろうと考えられている。銘は陽鋳(浮き出し文字)の逆文字で、南北朝期建武元年(1334北朝年号)となっている。

 敬白
 道徳
 八月廿日
 建武元年
 黒森□
 当山

 癸戌

鉄鉢の年号の下に横書きされた干支十干の「癸戌(みずのといぬ)」には若干の疑問がある。年号的に見ると建武元年は癸戌ではなく「甲戌(きのえいぬ)」であり、しかも干支十干には「癸戌」というものは存在しない。このような初歩的間違いはどうして起きたのかは不明だが、おそらくこの鉄鉢が中央の仏師等の職人の手によるものではなく、中世初期から活発だった閉伊地方の製鉄によって作られたものであるため、法具や仏像を造る仏師のように干支や十干に詳しくない土着の鋳造師が制作したためであろうと考えられている。また、敬白に次ぐ「道徳」という文字は、人物名と考えられ、おそらくこの時代にはすでに存在していた黒森山の安泰寺の住職と考えられている。(小笠原康正氏所蔵)

南北朝期の黒森神楽獅子頭

黒森神社に古くから伝わる黒森神楽には、南北朝時代初期と推定されるものをはじめ、現在22頭の獅子頭がある。そのうち16頭は「ご隠居様」とされ大切に保管されているが、このように同じ神社の獅子頭が古い時代から現在まで揃っているというのは希であり、ご隠居様とされる獅子頭16頭は岩手県の文化財に指定されている。

黒森山拝殿峠の・安泰寺梵鐘の拓本

黒森山には山腹の黒森神社を庇護するかのように安泰寺、赤竜寺という二つの密教寺院があったとされる。(両寺院とも廃寺となり現存しない)このうち赤竜寺建立は比較的新しいが、一方の安泰寺は創建が南北朝期ではないかと考えられている。安泰寺があった正確な場所は定かではないが、安泰寺の梵鐘の文字によると貞治四年(1365北朝年号)があり、南北朝中期には安泰寺が黒森山にあったことを意味している。鐘には次のような銘が独特の書体で陽鋳(浮き出し文字)で現されている。

 敬白 うやまいもうす
 釈迦納安泰寺推鐘 しゃかのうあんたいじすいしょう
 長一尺八寸口一尺六寸 ながさいっしゃくはっすんくちいっしゃくろくすん
 右之鐘者天長地久 みぎのかねはてんちちょうきゅう
 奉為殊禅衆 ことぜんしゅうのためたてまつる
 直阿走門惣百姓 ちょくあそうもんそうひゃくしょう
 結衆尽法界衆生 しゅうじんほうかいしじょうをむすぶ
 平等利益儀也 びょうどうりやくのぎなり
 大旦那式部太夫源長時 だいだんなしきぶたゆうみなもとのながとき
 別当 べっとう
 仮海 かかい
 勧請主 かんじょうぬし
 旦那恵心 だんなえいしん
 貞治四年 乙巳十一月六日

この鐘は江戸末期鐘を保管していた宮古代官所が火災に遭い焼失、現在は拓本のみが残されている。また、この鐘を奉納した所以を書き残した古文書が山口小笠原家にあり、そちらにも貞治四年の北朝年号がある。同古文書によると寺は黒森神社の通称・拝殿峠にあったもで、鐘は里人の黒森入山を警告するものだったとされる。黒森神社は江戸時代以前から南部氏の信仰も厚かったため、里人の入山は固く禁じられていた。

黒森神社改築の棟札

鉄鉢が奉納された建武年間にはすでに存在していたと考えられる黒森神社には今から約600年前の南北朝時代の軒札が存在する。軒札には南北朝時代の南部家を知るためにも重要な、第12代南部藩主である三戸南部伊予守・信長(のぶなが)の名もある。所々判読できない文字もあるが概ね次の文が記されている。

 参封 さいふう
 我適曽供養今復遷親近 われまさにかつてくようしいままたしんきんにせんず
 当郡 地頭南部光禄 とうぐん じとうなんぶみつろく
 旦那 沙弥宗光 だんな さやむねみつ
 旦那 小笠原太郎三郎 だんなおがさわらたろうざぶろう

 聖主天中天迦陵頻伽声 せいふてんちゅうてんかりょうひんかこえ
 奉 たてまつる
 造営治明御宇黒森山権現御社一宇 ぞうえいじめいおんうくろもりさんごんげんおんしゃいちう
 哀愍衆生者我等今敬礼 あいびんしゅうじょうわれらいまけいれい
 南部伊予守信長 なんぶいよのかみのぶなが
 旦那 沙弥真清 だんな さやしんせい
 旦那 対馬房阿闍梨明春 だんな つしまぼうあじゃりめいしゅん  旦那 (10名略)
 大工 三郎左衛門
 執事 治郎房律師宗清 じろうぼうりつしむねきよ
 応安三季 おうあんさんき 歳次庚戌 さいじかのえいぬ 十二月十七日
 河原田右京助道 かわらだうきょうすけみち
   小工 五郎太郎重光 しょうく ごろうたろうしげみつ

この棟札にある信長は、応安年間の32年前に没していることから、後の第12代藩主政行が黒森神社を造営し父の名をかりて北朝年号で印したものと考えられている。
南部氏は甲斐源氏の一族で、鎌倉幕府草創期に光行(みつゆき)が甲斐国巨摩(こま)郡南部郷(山梨県)を名字の地としたことに始まる。南部氏は後醍醐天皇と足利尊氏の対立が決定的となった建武2年(1335)、都を占領した尊氏を討伐するため南部師行(もろゆき)や葛西清貞(きよさだ)らを引き連れて京に進軍、北畠顕家の軍勢に加わり勝利する。しかし、鎮守(府)大将軍・顕家らと共に多賀城に戻ったころには、すでに奥州に不穏な動きがあり、尊氏の子・義詮(よしあきら)を補佐する鎌倉府執事の職にあった斯波家長(しばいえなが)が奥州総大将に任命されるとともに奥州には足利派に属する武士も増えてゆくことになる。
その後、顕家の弟・顕信(あきのぶ)が陸奥鎮守府将軍として陸奥に入り、南部師行の弟・政長(まさなが)、葛西、伊達らの武士とともに足利方の石塔義房(いしどうよしふさ)らと戦いを続ける。しかし、1342年(南朝・興国3・北朝・暦応4)ごろには足利方の優勢がほぼ固まり、1353年(正平8年・北朝・文和2)にはすべての拠点を失って顕信は逃亡し、奥州における南北朝の動乱はおさまることになる。

関連事項

地図

<googlemap version="0.9" lat="39.66085" lon="141.940742" type="map" zoom="16" width="320" height="240" controls="small"> 39.660815, 141.940551, 黒森神社 </googlemap>

表示
個人用ツール