Miyape ban 01.jpg

黄金の茶釜

提供:ミヤペディア
2014年10月22日 (水) 16:55時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内, 検索

目次

羅賀の漁師・広内長七・が語る旧幕府軍艦「高雄」の黄金の茶釜

慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争は幕末から明治にかけて日本全土を戦いの火に包んだ。戦いは宮古の地にまで北上し、明治2年旧3月25日、敵艦船奪取を試みた旧幕府軍と五稜郭を目指して北上する官軍が宮古湾で衝突、見果てぬ夢を追いかけた男たちの壮絶な戦いが繰り広げられた。
旧幕府軍は補給のため宮古港に終結していた艦船の中から最新鋭艦「甲鉄」を強奪すべく、旗艦「高雄」突撃艦「回天」「蟠竜」の3隻で函館を出帆したが、途中嵐に遭い各艦は別々の航路で山田港へ到着。奪取作戦のため宮古港へ向かったが嵐のためエンジンが故障していた「高雄」が遅れ、作戦は「回天」1隻のみが決行。宮古港で約30分ほどの海戦を繰り広げ両軍の死者19名、負傷者34名を出し回天は北へ敗走。これを追って官軍の「春日」他3隻は敗走する回天を追った。そこでエンジンが故障し速力の上がらない高雄に遭遇、羅賀沖で砲撃を開始。高雄は大砲5門を備えた全長40メートルの大型戦艦であったが故障により推進力は上がらず羅賀港北の明戸浜を目指して逃走、最終的に弁天崎の石浜に座礁。応戦後自ら船体に火を放ち乗組員は船を捨て山へ逃走した。
この羅賀での海戦を14歳で目の当たりにしたのが広内長七(故人)という羅賀の漁師だ。この人の話によるとこの日たまたま小川村袰綿出身と普代村黒崎出身の漁師が漁に出ており、捕り押さえられてしまい、その時に兵士から聞かされたことは「逃げる時高雄の黄金の茶釜を石浜に埋めた」というものだ。黄金の茶釜は高雄の装備品であったのか?港に入港して石炭や薪などの燃料をはじめ食料品などを調達するための資金として積み込まれていたのかは不明だ。高雄から逃走した旧幕府軍の兵士たちは野田代官所によって捕らえられたり、陸路で宮古から駆けつけた官軍兵士に捕らえられたが、中には北へ向かって逃げおおせた者、周辺の山野に潜伏し、ほとぼりがさめてから里へ降りて里人と結ばれ定住した者もいるという。高雄乗組員の刀鍛冶は羅賀に定住し80歳ぐらいで亡くなっている。

大正5年に大がかりなサルベージ

羅賀の海戦後、羅賀をはじめ周辺の村々から撃沈した高雄の装備品を求めて多くの人が石浜で様々なものを拾って持ち帰った。中にはペンキなどもあったが当時は何に使う物なのかわからず壊して中身を捨て、入れ物が銅製だったのでこれを鍋釜に流用して使ったりしたという。後日、代官所から役人がきて高雄から取った物は全部差し出すよう命令された。数人が見せしめとして厳しく詮議されたため地区民らは高雄の装備品のほとんどを差し出したという。時代が下り装備品の一部である唐金(からがね)の大砲4基が宮古橋の擬宝珠に、鋼の主砲は鍬ヶ崎の公園に置かれ、鉄製で球状の大砲の弾は菊地長右衛門氏に寄付されたという。
石浜の古戦場跡には大正から昭和初期まで高雄の残骸が残り、非常に大きな光沢のある鉄の塊が波打ち際にあり時化になると見えたり埋まったりしていたという。大正5年(1916)に潜水夫を使って大がかりなサルベージが行われ、その時にほとんどのものを引き揚げたという。その後石浜には北山崎へ続く観光道路建設工事の時に多くの岩塊が投下されているという。昭和になって戦後にある青年が毎日石浜へ通い各所を掘り起こしたが何も見つからないまま現在に至っている。

関連事項

地図

https://goo.gl/maps/NdtXe

表示
個人用ツール