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鴨塚の句碑

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2014年10月28日 (火) 16:16時点における最新版

[編集] 宮古浦に遊んだ文人・小野素郷は芭蕉の句を選んだ

光岸地の背後の山に祀られている大杉神社境内にある俳句の刻まれた江戸時代の石碑。宮古市指定文化財
天明3年(1783)に盛岡の俳人・小野素郷(おのそきょう)が、宮古の俳人・里川(りせん)にさそわれて鍬ヶ崎に遊んだ時、暮れてゆく鍬ヶ崎港の景色を夏保峠から眺めて芭蕉が詠んだ句を思い、自ら浜石を探し建立した建てたという。俳人・小野素郷は俳諧の他にも謡曲などにもたけた盛岡の文化人で、文政3年(1820)に没している。また素郷と同行していた宮古の里川という人物は津軽石の人と伝えられている。
素郷が詠んだ句は、江戸時代新たな表現力で俳聖とうたわれた松尾芭蕉が『野ざらし紀行』で名古屋からの帰りに仲間とともに立ち寄った熱田で詠んだものとされ、この句を掲載している安永4年(1775)発行の『俳諧蓬莱島(はいかいほうらいしま)』に貞享元年朧月十九日(1684年4月・朧月が4月の季語)の年号があるという。
 江戸時代、特に中期の元禄から後期の宝暦、明和期を経て江戸末の文化・文政時代にかけては庶民サイドの文化が開花する時期でもあり、この時代俳諧の先人である芭蕉は多くの文化人によって研究されその足跡を多くの文人がトレースした。そんな折り小野素郷も辺境の地にて感じた共感を芭蕉になぞらえ自作の句ではなく既存の芭蕉の句で表現した。また下部の翁とは芭蕉に対しての敬意を表していると考えられる。句は次の通り。

  • 海暮天 鴨能聲 保乃可尓 白し 翁

句は変体仮名で「海暮天(うみくれて)鴨能聲(かものこえ)保乃可尓(ほのかに)白し(しろし)翁(おきな・芭蕉の意)」とある。ここでは同じ発音が重複する「~鴨能聲(かものこえ)」の「の」を「能」とし「~保乃可尓(ほのか)」の「の」を「乃」に変換している。碑の材質は苔むしてはいるが石英粗面岩であり素郷、里川は夏保峠を越えさらにその先の浄土ヶ浜へ向かいその景色に感銘してこの句をあてた可能性もある。

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