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隠れキリシタン

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偽金作りの罪の裏に隠された隠れキリシタン伝説

寛永20年(1643)、山田町荒川地区に江戸中期頃、鋳銭罪の咎で15人の人間が斬首されたという伝説が語り継がれている。これについて津軽石・竜谷山瑞雲寺の過去帳に「昔荒川村鋳銭罪科之員数、元禄七甲戌年迄捨置処、重茂村木川氏法事執行之次記法号造立卒塔婆之記録之者也」とあるという。これは寛永20年に斬首された罪人の亡骸を元禄7年(1694)まで野ざらしにしたまま50年間放置していたが、重茂村の木川という人が法事を執り行い供養したという記録と考えられる。戒名を与えたのは瑞雲寺九世・東谷尊秀和尚ではないかとされている。記録をみると斬首された者の中には童子・童女などの子供もおり、この処刑が尋常のものではなかったことを表している。
時代が下り、この事件から約150年後の寛政8年(1796)に斬首された人たちの墓碑が荒川村の村社である八幡神社の参道に建てられた。墓碑には前述の15名の戒名が刻まれ、裏面には「昔寛永山中為罪犯者罪障消滅建立之塔」と刻まれ左下部分に「ー」「|」の奇妙な記号がある。このことから後の研究者、郷土史家たちは斬首された15名の罪状が偽金を作った鋳銭ではなく、当時御法度とされた伴天連の異教徒、すなわち隠れキリシタンだったのではないかと推論した。この推論の理由はまず、嘉兵衛の小作人であるらしい人物二人が斬首されているのに罪人のなかに嘉兵衛本人がいないこと。荒川村で役人が罪人を逮捕する際、嘉兵衛は逃げおおせ、重茂村の山奥の岩屋に隠れたという伝説があること。東谷尊秀和尚の戒名に「道」「光」の文字が多く異教から仏の道へ帰依させようとする配慮に見えること。そして墓碑裏面の奇妙な記号がキリスト教の象徴でもある十字架を分解した図形に読みとれることなどがある。実際に、重茂村に隠れた嘉兵衛という人は、左近と名乗って重茂に住み生きながらえ、後に元禄の法要を営んだ木川氏は木川嘉兵衛の子孫であったと考えられること。なお、この木川氏は元禄年間に「吉川」姓に改め現在に至る。
事件のあった寛永年間は日本沿岸に接近する異国の船舶が多くなり、民衆が異国人に接触することを危惧した幕府は15年(1638)に切支丹禁止令を発布、翌年には南部藩でも禁止令を発布した。事件のあった寛永20年には山田湾にオランダ船が立ち寄るなど、幕府や藩では外国文化との接触にことごとく神経質になっていた時期でもあった。また、鉱山で働く人たちは古来より山中友子などの特殊な共同体とネットワークを持つ流れ者の場合が多く、当時禁制だった宗教の知識もあったと考えられる。参考までに嘉兵衛の逃亡は、あらぬ罪を被せられ処刑された人々の汚名を晴らすため代表となって一人逃亡したのではないかと考えられている。また、後年、吉川の家では家長が死亡した際は埋葬前に必ず宮古代官所による検屍があったと伝えられる。不明な点が多い荒川村隠れキリシタンの伝説だが、昭和49年5月4日、津軽石瑞雲寺にて盛岡在住の吉川保正氏(彫刻家)が斬罪者の法要を行っている。

  • 参考文献 昭和50年発行・岩手県沿岸史談会『史潮8号』佐々木恒雄「荒川の隠れ切支丹と吉川氏」
  • 瑞雲寺の記録にある15人(戒名・俗名他)
  輝底道光禅定門 正月 荒川村 庄八  
  法光道性禅定門 十二日 馬之丞  
  無苦禅童子 正月   蔵松  
  丹心道融禅定門 正月   孫四郎  
  底観了心禅定門 正月   庄ェ門  
  常円道無禅定門 正月   又八  
  光室影妙禅定尼 正月   孫四郎 女房
  浄質道光禅定門 正月   善ェ門  
  涼春禅定門 正月   嘉兵ェ 下頼
  清心妙光禅定尼 正月   又八 女房
  春光禅童子 正月   徳千代  
  融心禅定門 正月上八日   茂作 下頼
  初光禅童女 正月   はる  
  泡煙禅童子 正月   千代松  
  道雲禅定門 正月   嘉兵ェ 下頼
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