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長根寺周辺そぞろ歩き

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室町時代から存在したと考えられている古刹、長根寺には数々の名所がひっそりと佇んでいる。それは参道沿いの民家の脇に佇む俳句が刻まれた石碑であったり、中世の時代、閉伊地方を駆けめぐった武将の供養碑、南部藩家老・桜庭家の墓所だったりする。それらはなにげない場所に歴史の片鱗を残しながら、訪れる人を待っている。

  • 閉伊を統治した南部家家老 桜庭氏墓所

長根寺白山神社参道脇に、南部藩家老として閉伊を統治していた桜庭氏一族が眠る十数基の墓石が並んでいる。桜庭氏は後の南部藩主となる南部光行に従って建久2年(1191)、甲斐国(山梨県)からきた武将で、戦国末期、宮古閉伊地方において諸舘を統一、この地方を南部氏の支配下におくことに尽力、治領として宮古閉伊を与えられ、江戸初期から、安政年間に至るまで君臨し南部四天王(三上、小笠原、福士、桜庭)の一角を担った。長根寺にある桜庭家の墓碑群は拝礼所の意味で実際に遺骨が埋葬されているわけではないが、大正頃まで盆には地域をあげて供養しており、長根寺に桜庭家墓碑群、善勝寺に桜庭累代之墓がある。

  • 老杉閣の往時を偲ぶ・一峯反古塚と幻住庵祇川反古塚

長根寺参道の石碑群の中に、俳句が刻まれた石碑がある。一峯塚には「もろこしの 吉野と申せ 梅処 泰山」、幻住庵には「山ひとつみな 名残おし 花の時」の句が刻まれている。反古塚とは習字した紙、詩歌の草稿などを粗末に扱わないで天神に感謝し供養するという中国の信仰が伝来し日本の習慣になったもの。長根寺22世・祐義和尚は荒廃した寺院を再建するのに尽力した人だが、俳諧の道に親しみ薫風の師友と広く交際がある文人だった。祐義の時代は宝暦6年から天明(1756~1781)にかけての時代で、長根寺はこの頃「老杉閣(ろうさんかく)」と称しこの間多くの文人墨客が長根寺を訪れていた。2基の反古塚も長根寺を訪れた俳人にちなんでこの頃、建立されたものだ。

  • 戦後時代の閉伊を駈け抜けた男たちの夢の跡・石到下(峠)八郎の塚

長根寺から北東の方向に伸びる山道は舘合に通じ、古くは山中を通る街道であった。その街道沿いに小さな塚がある、これは戦国時代、ある老将が討ち死にしたことを後世に伝えるもので現在も木柱の墓碑が建っている。ここに葬られているのは払川舘城主・一戸鬼九郎の家臣・石到下八郎という戦国武将である。
戦国時代、津軽石を統治していた一戸鬼九郎は正月参賀のため家臣、荒川佐助、石峠八郎、衣笠東伝以下十数名の家来を従え、親戚筋にあたる千徳の千徳城主・一戸千徳氏(千徳城城主については諸説あり)を尋ねた。一行は八木沢~小山田~舘合~長根寺~近内を経て千徳城大手門へ達した(現・坂本橋付近)。その時家臣、衣笠東伝が裏切り鬼九郎に斬りかかった。千徳城では東伝の裏切りと闇討ちを計画し武装しており、大手門で戦いとなり、鬼九郎は惨殺され家臣らは散り散りに逃げた。荒川佐助は閉伊川方面へ逃げ松山を越えて無事逃げ延びたが、石峠八郎は千徳軍と戦いながら後退、長根寺を過ぎ舘合の山中で待ち伏せしていた千徳軍によって討ち死にした。のち、千徳軍は間髪を入れず津軽石払川舘を攻め落とし、払川舘は炎に焼かれ一族は抹殺された。時は、天正10年(1582)の出来事であったと伝えられる。

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