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鍬ヶ崎大正物語VOL2

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目次

芸者・鶴子のアルバムから、鍬ヶ崎花柳界を懐かしむ ~芸者・鶴子編

芸者・鶴子の時代は明治維新の激動を乗り越え、人々の思想、生活様式が柔軟になった大正時代だ。宮古・鍬ヶ崎は従来までの閉伊街道に代わり海路が拓け船舶による交通網が発達した。鍬ヶ崎の港からは塩釜-宮古を定期航路で結んだ三陸定期汽船が発着し、鍬ヶ崎には三陸に新たな経済を求める人と文化が交錯した。江戸期から花街として存続していた鍬ヶ崎上町にはより一層の廓や料理屋が軒を並べ、夜が白む頃まで三味線や太鼓の音が町に響いていた。
鍬ヶ崎の各店舗は老舗として代々続く名店や、頻繁に転売されたり、火事により経営者が変わるものまで様々であったが、最盛期には芸者、半玉、娼婦を含めて100名以上を抱える花街であった。代表的な店舗は料理屋の老舗でありバルコニーやビリヤード台を備えた「相馬屋」、和洋折衷の三階建てで鍬ヶ崎一の広さをもつお座敷があった「旭屋」をはじめ、遊郭には「山田楼」「新開楼」「宮城楼」「日吉楼」「田中楼」「松月楼」「玉川楼」「日進楼」「松鶴楼」「くつかん屋」「更科楼」「いろは楼」などがあった。

半玉・鶴子

芸者・鶴子は明治38年、千葉県のとある町で双子として生まれた。当時の風習では双子を一緒に育てることは縁起が悪いとされ、鶴子は1歳に満たないまま、鍬ヶ崎で髪結いをしていた伯母の元へ引き取られた。
伯母の家は鍬ヶ崎上町から上ノ山寺(常安寺分院)へ登る坂道にあり、髪結いという仕事柄多くの芸妓たちが出入りしていた。千葉で生まれ鍬ヶ崎で育った少女鶴子は家に出入りする芸者や半玉を見て育ち、誰に言われるふうもなく、芸妓への道を歩むことになる。
そんなある日、鶴子を可愛がってくれたある芸者が、絵はがきのセットをくれた。そこには綺麗な着物で扇子を振る半玉たちの姿、お座敷で囲碁を打つ芸者たちの写真があった。このセピア色の絵はがきセットは明治末に鍬ヶ崎遊芸組合が観光客向けに販売したもので、この絵はがきが、のちに鶴子の夢を定めるきっかけになった。鶴子はそれを宝物のように大切にし、毎日そっと眺めては華やかな半玉たちの着物に憧れたという。
鶴子は4歳の頃から、家に出入りする芸者に連れられて、遊芸師匠宅で行われる唄や踊りを見よう見まねで覚え、6歳には師匠につき、本格的に芸事の練習に励んだ。そんな鶴子が半玉として初座敷を踏んだのは、大正7年。4月に蟇目山林から出火、花輪、千徳へ延焼し花原市の華厳院を含め144戸が焼失、9月には原敬内閣が発足、世間は物価高で米騒動が相次いだ。半玉・鶴子は14歳であった。

芸者・鶴子一本立ち

鶴子が一人前の芸者として一本立ちしたのは、鶴子が17歳になった大正10年。芸で身をたて、多くの常連客に可愛がられた鶴子のデビューだったが、帝国は日英同盟を廃棄、やがてくる軍国主義の足音が聞こえる暗い時代の幕開けでもあった。
少女時代、可愛がってくれた芸者から貰った絵はがきの写真に憧れ、その夢を現実のものとした少女は、そんな激動の時代を芸者として生き抜いた。戦後、復興とともに花街鍬ヶ崎も昔の賑わいを取り戻すかのようだった。しかし、戦後の教育制度改革などにより、少女たちは半玉として修行することはなかった。それでも残された料理屋、遊郭は営業を続けたがそれさえ時代の流れに取り残され、ひとつふたつと暖簾を下げていった。
一世風靡した頃に比べ灯が消えたような鍬ヶ崎になっても、鶴子は自分が育った上町の坂の上で暮らした。晩年は踊りを教えたり、老人クラブで三味線を披露したりしたが、数年前身体も弱り、息子のいる生まれ故郷の千葉に戻り静かに他界した。

廓の作法

遊郭には通りに面した入り口脇に格子窓のある広間があった。遊女たちはこの広間に行燈を灯し、夕方から「張見世」をやった。何軒もの遊郭が軒を並べていたため、各遊郭では若い衆が客引きをやって料金交渉などを行い客を招き入れた。遊郭は入り口のすぐ脇に二階へ上がる階段があり、客は「張見世」をしていた好みの遊女を連れ立って部屋へ上がった。遊郭での料金は「線香代」と呼ばれ、古来、時間配分を線香の燃えつきる時間で計ったことの名残であった。
当時の鍬ヶ崎での遊び方の主流は、料理屋、料亭などの貸座敷に芸者や半玉を呼んで飲み、その後に遊郭に流れて遊女を買うというものだったが、料理屋の中には遊女を抱えている店もあり、逆に、遊郭では宴会場を備えた店もあったため、料理屋で宴会をした後、その店でそのまま登楼する場合も少なくなかった。このように明治、大正初期の鍬ヶ崎では料理屋と遊郭が完全に分離されておらず、芸妓と遊女を同一視してしまう原因でもあった。

宮古から花街鍬ヶ崎へ

江戸末から明治頃まで宮古から鍬ヶ崎に入るには夏保峠を利用した。当時は現在のように光岸地が埋立されておらず、切り通しもなかったため、海岸沿いに鍬ヶ崎へ入るのは大変難儀だった。夏保峠は現在の宮古測候所付近で愛宕地区から登る「おくらの沢」を登り、北へ下れば「日影の沢」東へ下れば「道又沢」と「上ノ山」であった。これらの沢に連絡するのが夏保峠であり、切り通しが開通するまで芸者が客を見送りできる境界線でもあった。
このように遊郭や花街は江戸の吉原に代表されるように、四方が塀や掘りなどで囲まれた場所に発生することが多い。これは花街が特殊空間である証しであり、出入りを簡素化させることによって空間へのアクセスを管理する目的がある。鍬ヶ崎上町の場合も「切り通し」がなかった頃は背を山と岩に、前方を海に囲まれた閉鎖空間であり、どんづまりの地形は花街発生の条件を満たしていたと言えよう。

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