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鈴木林太郎

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  • すずきりんたろう【分類・宮大工】
  • 明治~昭和:明治24年~昭和50年(1891~1975)

職人として頑なに生きた昭和の宮大工

鈴木林太郎は明治24年、鈴木亀太郎の長男として沢田に生まれた。父亀太郎は漁師として宮古の網場で仕事をしたが、大半は北海道の漁場へ出稼ぎに行くことが多かった。同42年5月、新町から失火し新町、本町、沢田、横町で大被害となった後に語られる熊安大火で焼け出された林太郎一家は愛宕へ転居、20歳の林太郎は当時鍬ヶ崎で「函屋」という屋号だった大工の家へ弟子入りする。約3年の修行を終えた林太郎は明治末、大工職人として横浜へ就職、横浜大工組合に所属し大正元年、同組合世話方となる。この頃の林太郎はアメリカへ渡って建築の勉強をしたかったが、郷里では宮古へ戻るよう切望していた。そんな林太郎が帰郷の決心をした大正初期、明治45年崩御した明治天皇を奉る明治神宮の建立工事が始まった。林太郎はその工事に参加し自らの手で明治神宮の建築様式を学びたいと考えた。しかしその夢は叶わず帰郷することになる。
宮古に戻った林太郎は後、妻ツルと結婚、長男・諚一さんをもうけるとともに腕のいい大工職人として頭角をあらわしてゆく。明治神宮建立工事には参加できなかったものの、宮古へ戻ってからの林太郎は請負師が持ち込む仕事をこなしながら、独学で勉強を続け宮大工の道を歩む。林太郎が手がけた宮古下閉伊の神社仏閣は、大正6年の鍬ヶ崎不動尊(現日の出町不動尊)をはじめ、昭和5年梅翁寺及び寺持ちの社、龍王殿、山田関口不動尊(昭和15年)、金浜稲荷神社(昭和20年)、戦後は鍬ヶ崎心公院、大杉神社(昭和23年)、藤原比古神社(昭和36年)などがある。また、仕事の丁寧さとセンスが買われ宮大工だけではなく一般家屋をはじめ木造校舎なども数多く手がけている。代表的な学校は旧鍬ヶ崎小学校、旧宮古小学校、旧河南中学校、旧水産学校、現在の金勘漁業部の事務所になっている当時の鍬ヶ崎物産館などの木造建築をはじめ、釜津田小、山田小、大川小、小本中など下閉伊の小中学校や病院に及ぶ。
当時の林太郎には常時3~4名の弟子がおり、寝起きを共にする弟子とともに朝食前に道具を研ぎ朝5時には家を出て歩いて現場に向かった。夜は日誌をつけ遅くまで図面を引く毎日だった。その仕事は几帳面で工期の遅れを出すのが恥と必ず工期の三日前には完成させるという徹底ぶりだったという。
そんな林太郎は厳しさのなかで多くの弟子を育て、その中には現在の市内工務店の先代などもいる。晩年の林太郎は老衰で床に伏せる2年前まで現役大工としてノミをふるい、愛宕・本照寺の鬼子母神厨子などを奉納している。昭和50年10月、老衰で他界。85歳であった。

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