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竹やぶ長者

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2014年10月28日 (火) 16:38時点における最新版

[編集] 怪我をした動物が傷を癒す定番の鉱泉伝説の裏側に産金がある

旧新里村の民話に「竹やぶ長者」という民話がある。これによると享和から天保の頃(1801~1843)茂市太長根藪草に金鉱があったという。ここには多くの鉱夫が働きにきており鉱石が盛んに掘り出されたという。そんな鉱山の片隅にどこから来たのか夫婦者が小屋がけをして駄菓子やどぶろくを売る商売をはじめた。この店の主人の名は金蔵といい、馬で荷を宮古に届けながら帰りには酒の肴を仕入れて戻り愛想のいい女将がこれをつまみに商売をしていたという。
鉱夫たちは雨や雪の日は仕事にならないので金蔵の店に集まり朝から酒盛りをして博打に明け暮れたという。金蔵は暇になるとマタギに出て獣を仕留めていたが、ある時確かに手負いさせたはずの鹿に逃げられしまったという。数日して金蔵の妻が小屋の裏の竹やぶにある池へ行ってみると水が濁っていてそこに手負いの鹿がおり傷を浸しているのを目撃した。これを主の金蔵に知らせたところこの池の水が薬水だと判明。その後金蔵は鉱泉宿をはじめると金掘り人夫、木こり、漁師などが湯治するようになり繁盛したという。そんなある夜明け、金蔵の屋敷の裏でニワトリが啼くので行ってみるとつがいのニワトリがフクベに入っていた。このニワトリは金色の卵を産みこの卵が万病に効くとまたしても宿は評判となった。金蔵は大金持ちになり村人たちは「竹やぶ長者」と呼ぶようになったという。

[編集] 純度の高い砂金を産出した刈屋の倉の沢、和井内の安庭の沢

刈屋、和井内は江戸中期から幕末まで南部藩管理で砂金採りが行われた記録があり、各地区の沢では戦後あたりまで箱メガネと杓子を持って川底を探り砂金を採る人の姿があったという。特に純度が高い砂金が採れたとされるのは前刈山(913・5m)と猿舞山(1088m)から流れ刈屋川へ合流する「倉の沢」だ。この沢に沿った集落が倉沢地区でここには南部藩政時代に御山奉行の役人が休憩した家として「休場(やすみば)」の名字をもつ家が2軒ある。また、集落が途切れた先には昭和50年代頃まで営業していたと思われる倉の沢鉱泉の宿が廃墟となって存在する。
念佛森(684m)と和井内牧場となっている夏刈山の間を流れ、やはり刈屋川へ合流する「安庭沢(あでのさわ)」この沢に合流する念佛森から流れる「あんにゃの沢」、安庭沢の支流である「湯沢」も産金の沢だ。前述の「竹やぶ長者」の伝説は湯沢の最深部にあった「金鶏荘」がモデルとなっている可能性もある。また、この沢には宮古市老人憩いの家「安庭山荘」があり4月から11月下旬まで湯治客で賑わう。この鉱泉を世に知らしめたのは晩年隠居して閉伊街道を開削した牧庵鞭牛であり、湯沢までの道も切り開き石碑を建立している。「金鶏荘」は昭和50年末まで営業していたがその後休館し数年前老朽化により取り壊された。現在、安庭山荘の鉱泉は金鶏荘跡から引いている。
金が採れる沢の特徴として、一定の方向に削げる粘板岩、石英質の白色の岩盤、そして薬水や鉱泉などがキーワードとなる。刈屋、和井内の沢はそのうちのいくつかをクリアしており藩政時代に掘り尽くしたとは言え砂金発見の可能性がないわけではない。また、旧新里地区にはこの他に、金鉱を掘ったという蟇目の鉱山(蟇目の湯)、腹帯大沢山の蓬平(よもぎだいら)金山、前刈金山、そして昭和初期まで稼働していた三ツ石の岩穴金山などがある。

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