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畑の大穴

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奇岩の絶壁、畑の大穴が盗賊、破法坊(はほうぼう)の隠れ家

田老の摂待地区にある畑の大穴(実際の穴は岩泉町の境界内)での捕り物がいくつかの古文書に記載されている。これら文書は公文書ではなく物語的に書かれたもので信憑性等は読み手の判断によるところだ。これによると盗賊・破法坊の手下であり麦尾曾利の長者を襲ったのは次の通り。閉地右近(へじうこん・大槌)、木村半九郎(豊間根)、内藤市之丞(豊間根)、長内伝八郎(豊間根?)、二足羽々木(にそくはばき・近内)、白浜幸市(白浜)、鷲加賀嘉六(わしかがかろく・重茂)、切伏加良松(きりふしからまつ・切牛)などだ。これにそれぞれが連れてきた子分を入れて総勢16名の集団だったという。
残虐な盗賊の頭、破法坊の隠れ家としての伝説がある畑の大穴は石灰岩質の岩盤の斜面に大小数個の鍾乳洞が口を開ける奇岩の岩壁だ。現在は下部の穴入り口に木像や不動尊が祀られ、中腹の穴の入り口は落ち葉に埋もれている。この場所で捕り物があったとされるのは寛永19年(1642)で一度目は当時の宮古代官所代官、船越新左右衛門が破法坊一党に破れ退却、二度目は小本助兵衛が破法坊成敗に手柄を立てたと伝えられている。

長者の黄金を狙って盗賊・破法坊が村を襲撃

江戸初期の慶長から寛文の頃(1596~1672)重茂半島の東海岸に武士の一団が流れてきて「麦尾曾利(むぎおそり)」と呼ばれる部落に定住したという。この武士の一団は下野国(しもつけのくに現・栃木県)から戦に敗れ落ち延びてきたとされ、宇都宮と名乗っていたという。彼らは軍資金である黄金と武具、馬具を持参してこの地にたどり着いたが、麦尾曾利に定着してからは刀を捨て百姓として田畑を耕し、塩を炊いて漁に励むようになり、いつしか武士団の頭領は麦尾曾利の長者と呼ばれるようになったという。
この長者が軍資金として持参している黄金を狙って麦尾曾利を襲ったのが、その当時、浜街道で悪名を轟かせていた押し込み専門の盗賊・破法坊だった。破法坊は村や町に手下を住まわせ裕福な町家や豪商に目をつけ、徒党を組んで襲撃し金品を奪い皆殺しにするという手口で荒稼ぎしていた。
盗賊の噂を聞いていた麦尾曾利の長者は、盗賊が襲ってきたら反撃する手筈を村人に伝えてはいたが、盗賊たちの襲撃はあまりにも急襲だったため、長者は黄金を詰めた皮の袋を背負って馬で逃げるのがやっとだったという。血眼になって長者を追った破法坊らは重茂から赤前へ向かう峠で追いつき長者に弓を放った。長者は盗賊の狙いは黄金だと知っていたので、峠から下を流れる急流に黄金が入った革袋を投げ捨てた。それを見た盗賊たちは急斜面を下って淵へ下りて行ったという。その間に長者は馬を走らせ赤前村にたどり着き宮古代官所へ報告したという。淵では盗賊たちが何度も潜ったが流れが強くて水も冷たく、結局は何も見つからず夕方になると盗賊たちは何処ともなく去っていたという。
黄金が投げ込まれた淵は「黄金淵」と呼ばれ、現在の白浜、あるいは掘内という説がある。事件から何年か後、旅の僧侶が峠を通り渕の底が光っていたと言ったので、村人たちが底をさらったが何も出でこなかったという。また、この地区には「小金渕(こがねぶち)」の姓を名乗る家もあり、長者の投げ込んだ黄金(こがね?)からこの名字が生まれたという説もある。

関連事項

  • 織磯大明神
  • 重茂半島(Wikipedia)
  • みやこ昔ばなし
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