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横山八幡宮

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横山八幡宮の祭神は、品陀和気命である。神社の社殿は、昭和19年(1944)6月に新築したものだが、古くは明応年間(1492~1500)に千徳次郎善勝が社殿を修理し、また慶長16年(1611)の大津波では社殿が流されたと伝えられている。境内には、宮古の地名の由来になっている「神歌碑」が建っている。社殿の回りには、かつては元禄2年(1689)に南部藩の家臣が植えて奉納した、杉の大木などがうっそうと繁っていたが、今は伐採されて大木も少なくなっている。

【参考資料】宮古のあゆみ:宮古市(昭和49年3月)宮古のあゆみ:宮古市(昭和37年3月)

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目次

横山八幡宮例大祭

古くから宮古の郷社として信仰を集めてきた横山八幡宮は
毎年9月14日15日に縁日を迎え、例大祭が営まれる。
横山の太鼓が聞こえる頃落ち鮎が瀬につき
横山の祭りが終えると秋風が吹く。
横山八幡宮の例大祭は宮古の歳時記でもあった。
そこには人々が神霊を迎える
伝統やしきたりを守った祭りの本来の姿がある。
夕闇が迫り、参道にかがり火が焚かれる頃
横山の里は一年で最も厳粛な時を迎える。

初秋の横山八幡宮宵宮祭

9月14日午後、関係者、氏子たちは宵宮祭の準備にとりかかる。例大祭を迎えるにあたり神主は一週間前から身を慎み外出を避け潔斎(けっさい)をしてこの日に望む。
横山八幡宮の内陣に祀られている祭神は応神天皇、送名、「品陀和気尊(ほんだわけのみこと)」だ。この祭神がいつ頃祀られたかは不明だが、古来より学問、文化、そして産業を約束する神として宮古をはじめ下閉伊全土に信仰を集めている。
夕刻、参道に明かりが灯され、普段は閉じている金比羅神社、稲荷神社、神輿蔵の扉が開かれる。社には長い歳月を経て横山八幡宮へ集まってきた稲荷神社もありこれも祭神として一緒に大祭を迎える。参拝に訪れた人々は息災を願いそれぞれの社で手を合わせる。ただ金比羅神社は例大祭に伴い社は開けられるが縁日は別の日に設定されている。陽が落ちて濃紺の夕闇が迫る頃、神主や氏子たちは社殿に集い、神霊を迎える宵宮祭の儀式が始まる。

横山八幡宮神輿の歴史

横山八幡宮記』によると、横山八幡宮初代の神輿は、貞享年間(1684~1688)京都祇園三社として数えられる「住吉神社」から譲られたものだったと記している。この御輿は宮古から京都へ遊学していた人や商人によって横山八幡宮へ譲渡されることになったという。神輿は京都~大阪~津~下田~銚子~宮古と各港を経て積み替えされながら運ばれたもので、神輿受け取りのため当時藤原で海産物回船問屋を営んでいた小林家が受け取りのため船を仕立てたと伝えられている。
江戸末期の文政6年(1823)にこの神輿は修理されたことが記録にあり、宮古村、鍬ヶ崎村、その他の近郷からの寄進によって費用が賄われたという。また、この年から大祭には社人として大工、木挽、桶屋、紺屋なども神輿のお供に仰せつけられたという。しかし、明治24年1月(旧12月10日)の夜、火事により社と神輿2基を焼失している。その後社殿復興に伴い神輿も新調され、翌年9月12日(旧8月10日)現在の神輿が鎮座した。この神輿は当時の氏子総代だった菊池長右衛門氏が東京で斡旋されて購入したものだという。

漆黒の森に鳴り響く神楽囃

社殿において宵宮祭が終わる頃、社務所向かいの神楽殿において黒森神楽による奉納夜神楽が演じられる。演目は「打ち鳴らし」「とくさがり」「榊葉」「岩戸開」「山の神」「恵比寿」などで午後7時から3時間~4時間におよぶ。舞台には高天原天の岩戸の幕が掲げられこの幕をまくりあげるようにして神に扮した舞い手が入る。神楽衆は笛や太鼓ではやし立て歌うような祝詞を捧げ、神が光臨する瞬間を待つ。
神楽は、人が神に成り代わり神を見えるものとして大衆に伝える。独特の装束を身にまとい、神の面をつけて人が神を演じることにより、目に見えない神霊を具象化し、その仕草や物語性、舞、小道具などで神霊の特性を表現している。奉納神楽の中盤で舞われる「岩戸開」という演目は如実で、闇に包まれた世の中において、諸神が集まり岩戸に引きこもった天照大神を再び光臨させる日本神話の物語を演じている。宵宮祭において約束通り今、この地に神が降りる…そんなイメージを見るものに伝える。
祭りとはその神社の祭神はもちろん、山の神、地の神、水神、竜神、稲荷神など、祭りに乗じて降りてもらい、人々にいっそうの繁栄を約束させる、そんな意味が含まれているのかも知れない。
このように宵宮祭は一般人にとって神霊に最も接近できる特殊な日なのである。かつて各神社の祭りが参拝客で賑わっていたのはそんな理由があったからなのである。夜店がないとか、芸能がないという理由ではないのだ。古来より人は生きていくうえでどうしても神霊と信仰が必要だったのである。

秋空の下神輿行列がゆく

昔から横山八幡宮では例大祭の日に神輿行列を行ってきた。江戸時代の記録はさだかではないが明治の頃にはすでに神輿行列がありそれに参加した人々の記録が残っている。ただ当時は宮古市ではなく宮古町だったため現在の神輿行列のコースに比べ小規模だったようだ。現在のような行列になったのは戦後になってからで、昭和40年代はその賑やかさも特筆するものがあった。
神輿行列は「先駆(せんく)」と呼ばれ紋付き袴の総代が先頭になる。続いて「太鼓」「御塩撒」、警備の消防団、社名旗と続き、「猿田彦命(さるたひこのみこと)」「天宇受売命(あまのうずめのみこと)」の二神がつく。これは天狗とおかめの面で表現され、神輿を「高天原(たかまがはら)」から降りてくる神に想定し天孫光臨にちなんでいる。続いて千早に緋袴の「八乙女(やおとめ)」、白丁烏帽子の「五色旗(ごしきはた)」、続いて神霊を囃す「小沢獅子踊」、「黒森神楽」、「御初穂箱」、「弓」や「長刀(なぎなた)」が続き「神主」、「神輿」、「後駆(こうく)」と続く。近年人出不足から若干の省略もあるが、古くは神輿を社から降ろし、参道で呼び出しをしてから行列についたという。
現在の行列コースはほぼ市街地全域で東は藤原、西は西町方面まで約5時間、約300人近い関係者を引き連れ往復約21キロを歩く。警護で行列に参加する消防団は神社町内を管轄する宮古市消防団第9分団が中心に担当している。また、神霊の宿った神輿を囃す小沢獅子踊も横山八幡宮神輿行列には必ず参加するしきたりとなっている。
午前9時、行列が横山八幡宮を出発すると神輿行列とは別に、子供らによる稚児行列が五月町から横山八幡宮へ向かう。稚児行列は20年ほど前から行われるようになった行事で、着飾った幼児らによるお宮参り行列だ。一行は昼前に横山八幡宮に到着すると、健やかな成長を願う神事をうける。

海原を行く金色の神輿

沿岸にある神社のはほとんどが神輿を大漁旗で飾った船に乗せて海上を渡御する。これは「曳船」と呼ばれ、発動汽船がなかった頃からロープで互いの船をつなぎながら行われていた沿岸独特の特殊な神事でもある。現在、市内でこのようなしきたりを残している神社は横山八幡宮、大杉神社鍬ヶ崎熊野神社磯鶏神林稲荷神社重茂黒崎神社などだが、かつては大漁と海上安全に関する神社のほとんどが神輿を船に載せていたと考えられる。
横山八幡宮神輿は現在、築地の旧・白浜丸発着所から船に乗るが、築地岸壁が整備される以前の昭和初期までは新川町から船に乗った。ここは現在のJR山田線鉄橋の袂付近で「船場」という通称名が今も残っている。当時の曳き船は櫓で漕ぐ「伝馬船」と呼ばれる船が使われ、曳き船は人力による半日がかりの神事であった。
当時の曳船は人力で漕いだので、参加する船はそれぞれロープで繋ぎあった。これが曳船の由来だ。船の先頭は「花船」と呼ばれ八幡宮の太鼓が乗る。順に各船が繋がってゆき最後に神輿船がつく。かつては花船と神輿船の間に入る船同士で諍いがあったほどその順番には大漁の御利益が約束されたいたという。

御輿海上渡御

神輿を乗せて築地岸壁を離れた神輿船は、龍神崎を過ぎたあたりで神主の祝詞が捧げられる。その後、浄土ヶ浜手前の「袴島」という定置網の付近で五色の帯をつけた松の枝を海水で濡らす。この神事は海の恵みを約束する竜神に捧げられるもので、海水に浸された松は竜神の息がかかったものとされ、枝は後に短く切られ社人たちが「おまぶり(お守り)」として持ち帰り家の神棚に供える。
船が日出島沖を過ぎると宮古湾入り口の三丁目定置網漁場につく。神輿船はここで一端速度を落とし、大棒以下乗組員たちは定置網に御神酒を捧げ大漁と海上安全を祈願し柏手を打つ。この神事を終えて曳き船は帰路につくことになる。帰りの船上では黒森神楽衆による「恵比寿」の舞が奉納され、この船が大漁することを約束する。

恵比寿が大漁を約束する

遠い海原から流れ着く漂着神とされる恵比寿にはさまざまな伝説がある。宮古の場合時化によって打ち上げられた大石や網に入って揚がった大石を恵比寿神として祀る場合が多い。(津軽石恵比寿堂、重茂石浜神社など)曳船の船上で舞われる神楽の恵比寿は、黄金の竿に白銀のハリで目当ての鯛を釣る漁師として表現され、道具の改良や釣り場の設定など様々な試行錯誤の末、大漁するというストーリーになっている。神霊が大漁に歓喜し、あたかも人の如く振る舞うことで大漁と漁場の安全を約束するのである。

神子湯立神事

大祭を終え翌日16日、神子による湯立託宣が行われる。この行事は再び神霊を迎え、神子を媒体として神霊の言葉を聞き、儀式のあと神霊を送り返すもので、古くはどこの神社の祭りでも行われていた。
この日神主たちは祭神を迎える最後の儀礼を行い、神子は神霊を自らの身体に呼び込み「託宣」と呼ばれる占いをやる。神子は四方に結界が張られた湯釜の前で九字を切り呪文を唱えながら神霊と同化してゆく。黒森神楽衆は鳴り物を打ち鳴らしながら、神霊と一体化した神子に年内の厄災を問う。神子は祭神をはじめ稲荷神山神恵比寿神など多用な側面を持った神になり代わり漁のゆくえ、天候の善し悪し、方角の善し悪しなどを託宣として語り、人々や町内を護り置く約束をして再び去ってゆく。

日本の祭りの形

祭りの基本は神霊を迎えもてなし、今後の繁栄を約束させて送り返すというのがセオリーだ。人にとって無限のご利益と計り知れない厄災を併せ持つ神霊はまさに両刃の剣として君臨する。それを知っているからこそ人は縁日に襟を正して神を迎え、送り返す。大切な神霊ではあるが日々の暮らしの中に留まられては困るのである。では、神霊とは人の都合によって想像されたシステムか?というとそれもまた違う。神霊とは人が人として暮らし始めた太古の昔から、人間の精神域に存在する逆らうことのできない驚異や恐れの中にある力なのである。それは大自然のもつ恵みと災害であり、人の文明と共に、時代により幾重にも改ざんされ、姿を変えてきた陰と陽の集合体なのである。

直会(なおらい)

祭りを終えると関係者たちは長床、または神楽殿などの神社に付随した建物の中で慰労会をやる。これは神霊に供えた供物を共に食すことで、神霊に近づきたいという人の気持ちの表れでもある。また、祭事に伴い神霊に近づいた者たちが俗世に戻る、すなわち「日常に直る」という意味が込められている。

関連事項

外部リンク

地図

https://goo.gl/maps/cCy2k

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