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榎本武揚

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*[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A 榎本武揚](Wikipedia)
 
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2014年10月29日 (水) 10:33時点における最新版

[編集] 幕軍総裁榎本武揚と鍬ヶ崎

140年前に勃発した戊辰戦争で幕軍の総裁だった榎本武揚は明治41年10月に亡くなっている。73歳だった。戊辰戦争と言えば、この宮古も大きな関わりを持つ。明治2(1869)年3月25日の宮古湾海戦は近代日本初の洋式海戦として歴史にその名が残る。函館にたてこもる幕軍が新政府軍を宮古湾で迎え撃つものだった。明治維新の明暗を分けた戦いでもあったが、幕軍はこの戦いで敗れさらに函館戦争でも敗戦した。
総裁の榎本武揚は自刃しようとするが、その才能を見込まれ投獄後明治政府に迎えられた。その後、日本の近代化に尽力し政府の要職も歴任した。
その榎本は戊辰戦争で江戸を脱出した明治元年の10月13日に宮古に艦船7隻で入港した。測量しながらの入港で、榎本は「測量は寄港するごと入念にやり、海図という道案内に書き入れる。その港が今後必要であろうがなかろうが、やるわけ、まるで、西洋式海軍の癖」だったという。
16日出港するまで榎本らは鍬ヶ崎の和泉屋2階に本陣をはった。各将と旗艦「開陽」や和泉屋で軍議を開き、艦隊新編成、作戦計画等を策定、蒸気機関燃料代用の薪炭、用水、食糧積み込み、兵士の調練、休養、準備にと忙殺された。
この鍬ヶ崎の陣の大広間で、榎本ら将士たちは未だ見ぬ北の国に思いを馳せながら何を語って別離の宴をはっただろうか。

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