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普代・卯子酉神社の卯子酉信仰

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 宮古の北、北部陸中海岸にある普代村の卯子酉山(424m)の中腹にある鵜鳥神社は、大同元年創建と伝えられる修験霊場だ。祭神はウガヤ・フキアエズ(鵜葺草葺不合命 神武天皇父神)の鵜鳥明神、脇侍(わきじ・本尊の左右に従うもの)は、文殊菩薩(卯)、千手観音(子)、不動明王(酉)で、小本中野の大仏師福岡文孝(1787~1847)の名作である。

 ウガヤ・フキアエズノミコトを、『紀記』はウブヤ(産屋)未だフ(葺)きア(合)わぬ時生まれたための命名とする。

 本尊は女神立木像で、高さ75センチ、右手に小旗、左手に摩仁(まに)宝珠(願いのかなう珠)を持つ、特異な神仏混合像で、義経北行伝説によれば、一行がこの神に安全渡海を祈念のとき、金色の鵜の産卵と子育てを見て霊威にうたれたと伝える。

 ウネトリ様は、海上安全、悪病退散、安産の守り神で4月8日の祭日には八戸や宮古の漁師が船で大田名部港に入り天秤で鱒をかつぎ参詣した。

 鵜鳥神楽歌に「あれを見よ。沖には沖にと見えしもの鵜鳥神社拝み申せば、拝みもうせば」とある。

 『遠野物語拾遺』(佐々木喜善)には「卯子酉様は小池に片葉のアシが茂る。淵の主に願かけると男女の縁が結ばれる」とある。卯子酉山の池は願掛け占いの、若い男女で賑わうのだという。

目次

卯子酉信仰と縁結び

 その昔、旅の平安を祈って松の小枝を結ぶ風習があったという。そんな古事に習ってか卯子酉神社山頂付近の松の枝を、出漁から無事帰ってくるよう家族らが願掛けした結び松の風習が、いつの間にか広まり男女の縁結びの神ととして信仰されるようになったという。卯子酉神社では願い事があれば男は左手、女は右手で小枝二本を結び合わせるものでその枝が結ばれたまま枯れずに成長すれば願いが叶うとされる。卯子酉神社奥宮周辺にはそんな結び目が瘤となったまま成長したアカマツが多数見られ、古来より多くの人々が縁結びや航海安全の願掛けをした事がうかがえる。

 卯子酉神社の分社である遠野市・下組町の卯子酉神社も縁結びの神社として有名で、こちらは赤い小布を境内の小枝に結びつけるもので、男女を問わず左手で結んで願を掛ける風習になっている。

夫婦杉と夫婦神社

 卯子酉神社から卯子酉山頂上にある奥宮へ登る参道の途中に杉の巨木がある。杉の根付近の周囲は約10メートルほどで樹齢は一説によると500年以上あるとも言われている。この杉は元々二本の杉が生長する課程で根元が密着しひとつになったもので、根元から数メートル上から別々の幹に分かれている。二本の杉が根元では一本になっていることからこの杉は仲の良い夫婦に例えられ、夫婦杉の名がつけられている。夫婦杉の下には夫婦杉神社という社があり棟札には、大正十年(1921)奉・再建夫婦杉神社一宇・旧四月八日納人・金子栄一郎、裏に爲(為)・祈願円満感応成就・棟梁・佐々木利三、東京とある。このことから夫婦杉神社はもっと古い時代からあり、その社が老朽化したことから大正時代に再建されたことがわかる。また、現在はその社も老朽化したため平成元年に、新しい夫婦杉神社が新築奉納された。

卯子酉神社と義経北行伝説

 義経研究者であり『義経は生きていた』の著者でもある宮古の佐々木勝三氏(物故)は著書の中で平泉を密かに脱出した義経一党は建久2年(1191)春まで宮古にいたが、その後八戸方面を目指し北上、下閉伊郡普代村にも立ち寄り海神を祀り、食料を借りたとしている。義経一党は、中村丹後という人物の説明により普代方面の地理や状況を知り、その案内で卯子酉山に登り海神・豊玉姫を祀り海上安全を祈願したという。また、普代より北へ向かうため牛追いの少年に道を問うたところ、少年は鞭で地面に不行道(この先に道はないという意)と書き、義経らはこれより先に道がないことを知ったという。食料に困った一党は普代村で稗を借り証文を残したという。普代村にしばらく滞在した一党はその後北を目指し旅立った。一党の中に病人がおりこの地で没したため亡骸を祀り、それが現在の清河羽黒権現だという。

 義経一党は不行道とされた海岸線の北ルートを断念し一端北西へ進み小鳥谷まで来て、そこから東に向かって久慈へ入ったのではないか?と推論している。久慈に伝わる義経北行伝説では海岸線の野田方面から侵入した話はなく、西の大川目方面からきたと伝えられている。

 文書『下閉伊郡志』によると文治五年(1189)義経一行が蝦夷地へ渡る際、普代村を通過した際、鵜鳥神社で櫛八玉命を祀った。この時、鵜が子を産みこれを育て日々清水で身を清めるのを見て「世に稀なる名鳥なり、その姿金光色なり、必ず神鳥ならんと」と感銘し、七夜祈願し、鵜茅葺不合尊、玉依姫尊、海神尊の三神を出現させこれを卯子酉神社の神体としたと伝える。この他『東奥古伝』をはじめ旧家や豪農に残された古文書にも卯子酉神社と義経北行伝説関連の記載が見られる。

卯子酉神社の分社と石碑

 岩手県内各地に点在する卯子酉神社は普代村の卯子酉山に鎮座する卯子酉神社から勧請された分社でありその数は沿岸部、内陸部に11社が存在する。また、卯子酉神社の名が刻まれた石碑や石灯籠などはかなりの数が存在し、宮古市にも数社の社と10基ほどの石碑や石灯籠が存在する。

 社では旧田老町畑地区に卯子酉神社がある。この神社は伝説によると昔、この神社があった場所に大木がありそこに白い鵜が飛んできては止まるので、普代の卯子酉様のお使いではないかという事になり神社が建立されたという。祭神は千手観音、不動明王、鵜、農神で江戸末期の文政二年(1819)の鰐口が奉納されている。

 宮古湾の対岸、白浜地区にも卯子酉神社がある。棟札には明治44年(1911)の年号があり、中村清之助の名がある。この神社は同地区の中村家の氏神で卯子酉信仰から漁業の神である卯子酉神社を勧請したものだ。  拝礼塔や参拝記念の石碑、石灯籠は8基が存在し重茂などの漁業へのウエイトが大きい沿岸部をはじめ、和井内、長沢、南川目などの農村部にも多くの石碑が存在する。

卯子酉神楽と黒森神楽の関係

 岩手県沿岸部には「北の鵜鳥、南の黒森」と称される二つの山伏神楽がある。両者とも『霞』と呼ばれる山伏のテリトリーで活動し古来よりこの範囲内で宗教活動を行ってきた。維新後には山伏による修験活動が禁止になったが信仰活動の中で演じられてきた神楽は子孫らに受け継がれ、鵜鳥神楽は卯子酉神社で、黒森神楽は黒森神社でそれぞれ正月八日に舞い立ちを行い春まで沿岸を巡行する。この際、両神楽は一年おきに南廻り、北廻りと交互に巡行することによりテリトリーを保っている。山伏神楽を根底にもつ両神楽は演目や構成は似通っているが伝承課程で独特な違いもあるようだ。

 鵜鳥神楽は卯子酉神社の縁日などにも奉納される。ちなみに縁日は古来から毎年旧暦の4月8日で海上安全と大漁、そして縁結びの神として多くの参拝者が訪れる。

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