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昭和8年津波

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目次

津波被害の宿命を背負った三陸沿岸

海に面したわたしたちの宮古は過去に幾度も津波災害に遭ってきた歴史がある。例えばそれは長い歴史の中で繰り返される地球規模のプログラムであったかも知れない。その度に人々は揺れる大地に驚愕し、猛り狂った高波に翻弄されてきたのであろう。それは大正、明治、江戸の近世を経て、記録は残されていないが中世、古代、縄文、神世の時代まで遡る災害の歴史でもある。そして今回、昨年3・11の東日本大震災における津波災害は岩手県、宮城県、福島県の海岸線に位置するまちでは甚大なものとなった。過去最大の津波とされた今回の津波だが津波はこれで終わったわけではない。いつかまた再び来襲するのである。

昭和8年の津波を写真集で出版『三陸大津波写真集』

九里拓洋・著『三陸大津波写真集』は平成8年宮古市の文化印刷から刊行された写真集だ。この写真集は三陸大津波があった昭和8年当時、東京の法政大学生だった箱石寿氏(宮古出身・平成5年87歳没)が、3月12日から20日までの約10日間を山田町、宮古町、田老村、田野畑村の延々90キロを機材を担いで徒歩で歩き被害状況を克明に記録撮影し、自ら現像・焼付をしてアルバム二冊に納め保管していたもので、その後、九里氏が出版した『田野畑村の大津波と証言』という冊子を目にした箱石氏のご子息(盛岡)が、津波災害の再認識のため役立てて欲しいとの意向でアルバムを九里氏にアルバムを寄贈、九里氏はこれをまとめ、災害時田老村で報道活動をしていた駒井雅三(陸中タイムス・みやこわが町創始者)の津波被害を詠った短歌などを添えて冊子として平成8年に出版したもの。  九里氏は田野畑村出身で自身も8歳の時に昭和8年の三陸大津波に遭遇、命の難は逃れたものの家、家財のすべてを失った被災者でもある。以後、田野畑村でも津波経験者が少なくなる中で風化し薄れてゆく津波の恐怖を後世に残そうとこの冊子を出版したのである。

船舶が衝突し宮古橋が三つに折れる

昭和8年の三陸大津波でも閉伊川水位が上昇し船舶が上流へと流された。押し上げられる船舶は当時木造だった宮古橋に激突して宮古橋は三つに折れた。この光景を夜明けの薄暗いなかで駒井雅三氏が長時間露光で撮影している。しかし、この写真を含む駒井氏が撮影した三陸大津波の写真は後のアイオン台風の水害で写真館が水没しそのほとんどを失った。写真を失った駒井氏は短歌で津波の光景を詠んでおり、その中に三つに折れた宮古橋を長時間露光で撮影した歌が残されている。 今回の津波来襲時にも閉伊川の水位が上がり船舶が上流へと押し上げられ、何隻もの船が宮古橋の桁に衝突した。最大波到達時には山田~大浦間を結んでいた小型観光船が橋に衝突、そのまま乗り上げて向町の新南大橋下まで流された。宮古橋の橋脚や桁は壊れなかったが袂や舗装路、歩道欄干など大きく被災した。また、宮古橋上流のJR山田線第34閉伊川橋梁は6個の桁を流された。

藤原方面と宮古を結ぶ仮歩道橋急造でしのぐ

昭和8年の三陸大津波で大型船舶の衝突により折れてしまった宮古橋は修理架け替えが検討されたが、新しくコンクリート製の橋を架けることになった。そのため壊れた橋は修理されず急遽歩行者用の仮歩道橋が架けられた。新しい橋は橋脚6本のゲルバーT形連続桁の鉄筋コンクリート橋で工費は当時16万円であった。完成したのは震災から二年後の昭和10年2月5日で。この時から名称は正式に『宮古橋』となった。 江戸期は渡し船で行き来していた藤原~宮古だったが、明治8年に『新晴橋』という橋が架けられた。位置も現在の宮古橋が架けられている附近でこの橋が宮古橋の前身だ。宮古橋は市民の動脈として親しまれ閉伊川の歴史を見続けてきた。度重なる洪水や津波の被害で流出するなど苦難の歴史を歩んで来た橋でもある。

港町伊勢屋前に船舶が打ち上げられる

昭和8年当時、カメラは木製の箱形で乾板と呼ばれるガラス板の膜面に焼き付ける機構だった。ほとんどの撮影において三脚が必要で重く携帯性は低く同時に貴重品だった。そんな時代背景の中で今回の箱石氏をはじめ駒井氏などが機材を背負い徒歩で移動しながら津波の被害を記録している。そんな写真の中で最も象徴的なのが鍬ヶ崎港町の伊勢屋商店前に打ち上げられた大型漁船の写真であろう。当時、この景色は多くのカメラマンの被写体となり数パターンの構図の写真が残されている。打ち上げられ取り残された船舶は大滝丸50屯で冷蔵施設をもった大型運搬船だった。この写真が鍬ヶ崎に押し寄せた昭和8年津波の破壊力を物語る写真として知られている。

鍬ヶ崎海岸通りは埋立工事中だった

昭和8年当時の津波来襲時、鍬ヶ崎の海岸通りは埋立工事中であった。埋立は現在の出崎埠頭から上町の臨港通、旧製氷工場や旧宮古魚市場を経て港町附近までの工事だった。このうち上町附近は沖合に杭が打たれすでに埋立の土砂が運び込まれていたため、家屋の浸水はあったものの家屋の損壊は少なくある程度津波を防ぐことができたようだ。それに対し港町付近は工事が進んでおらず津波の直撃を受けたため陸に船舶が押し上げられたりしたようだ。

発動機船が藤原須賀に打ち上げられる

閉伊川河口西岸の藤原須賀にも多くの船舶が打ち上げられた。津波到達時間が午前2時頃と深夜だったこともあり被害が増大したと考えられる。また、当時は木造船がほとんどであったが沈没船や陸に打ち上げられた船舶を動かすための大型クレーンなども少なく撤去にはかなりの時間と労力を要した。

二度の津波に遭遇した撮影者・箱石氏の運命

三陸大津波の被害記録のために宮古入りした大学生連盟調査班はこの写真集を残した箱石氏を含め3名だった。彼らがどのような理由と使命、またどのような待遇で被災地に入り取材活動をしたのかは不明だが、当時慰問に訪れた陸軍盛岡連隊大佐、山田町長らと並んでの写真も残されている。撮影、現像、引き伸ばしを担当した箱石氏(右写真の右側の人物)が生まれた箱石家は、昭和の津波に先立つこと27年前の明治29年6月15日の三陸大津波の際には下閉伊郡田野畑村島ノ越に在住しており、たまたま外出していた男子二人を残し家族、使用人を含む13名が犠牲になっている。奇しくも生存した初代・米定氏は後に宮古町で米穀店を営みその息子である寿氏がこの写真集を制作している。なお寿氏は二代目として後に米定を襲名している。津波では箱石氏の実家である米穀店も浸水しており、生家の写真もあるが現在のどの地区のどの辺りであったかは不明だ。

津波太郎

田老村(現宮古市)では朝までに大小7回の津波が湾奥まで押し寄せ、高台にあるごく少数の民家や建物を残して殆ど全村が流失した。田老村の被害は明治の大津波に次いでまたもや壊滅的なものとなりこの時は死者548人、不明者363人、被災生存者1828人という被害状況となり、559戸中500戸が流失・倒壊し死亡・行方不明者数は被害地人口2773人中911人(32%)一家全滅が66戸であり死者数及び死亡率とも に三陸沿岸の村々の中で最悪の事態となった。ちなみに宮古町の被害は流失家屋4戸、死者2人、磯鶏では死者2人、負傷者6人、流失家屋7戸、家屋倒壊33戸であるからその被害の大きさがわかる。この津波による岩手県全体の被害は、死者1408人、行方不明者1263人、家屋流失2969戸、家屋焼失249戸、浅薄流失5860隻という惨状だった。

万里の長城と呼ばれた大防波堤建設へ

被災後、「高台へ移転」「山を崩して高く」「満州へ移住」。あまりもの犠牲に当時はこのような議論が交わされた。しかし、「漁師が高台へ移っては仕事にならない。防浪堤を造ろう」と、時の村長、関口松太郎は決断した。町を取り囲む当時は全国に類のない津波防浪堤の建設が始まったのは昭和9年からだった。国の助成は得られず、単独工事で行った。専門技師は東京府庁から呼び寄せている。こうして始まった一大工事には各地から多くの労働者と家族も集まった。翌10年に視察に訪れた石黒英彦県知事は村長、村民の熱意に感動し、県工事に移行した。そして着工から24年。海面からの高さ10m、延長1350mの防浪堤が完成したのは、戦争中の中断をはさんだ昭和33年にその姿を見せた。その後に海側にさらに同規模のものができ、総延長2433mという長大なX型の防潮堤で田老の町は二重に守られることになった。

三陸沿岸第一の災害地

昭和8年の津波は、地震後約30分で田老村を襲った。津波来襲前にはかなり急激な退潮があり、海底の砂礫が引き去られる音が高く響いた。津波の来襲と同時に猛烈な「あおり風」があって、家屋を倒壊し、屋根を風散させてしまった。来襲した波は湾口から一直線に進んで小林方面に進み、龍ヶ鼻に突き当たって一部は大平方面に、他は町・荒谷・青砂里方面に二つの廻し波になって三陸沿岸第一の災害地となった。恐怖の一夜が明けて初めて耳にする惨状は文字通り凄惨そのもので、田老・乙部の両市街はわずかに数戸の民家と高地にある役場・学校・寺院を残すだけで、ほとんど全市街が流失していた。

当時の救援活動

記録では、被害のなかった地区民がいち早く炊き出しをして朝食・昼食を配った。村では宮古町から白米の供給を受けて、3日の夕食から神田自警団によって小学校で炊き出しを始め、さらに県からの配給米で3月25日まで行われた。避難所となった小学校は3日夜から満員となり、各方面からの救護班、応援隊の仮泊で混雑をきわめた。収容数は3月12日の119家族、451名を最高とし、次第に減少し、4月1日の新学期開始と共に全部が引き上げている。 当時の仮設住宅は県の敏速な活動と村内応援隊の労働奉仕で3月8日から着工し、12日に156戸(小林区、町区、荒谷区)全部完成した。しかし、1棟5戸分とし、1戸は間口2間、奥行2間半、側は杉板1枚張り、屋根は杉皮をもってふき、雨風雪寒気をしのぐにはあまりに粗末であった。

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