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愛宕小学校

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目次

校章

学校教育目標

明るく、健康な、いきいきした子
  1. よく学び 深く考える子
  2. 心が豊かで 思いやりのある子
  3. 健康で たくましい子

特色ある教育活動

たくましく生きるため健康や体力・運動能力の向上を図る諸活動(1日2万歩運動、業間運動、生活習慣予防学習、歩く遠足等)
特別支援教育の趣旨を踏まえ、個々のニーズに応じた指導の充実と交流教育の推進
沖縄県多良間村立多良間小学校との姉妹校交流(運動会での多良間の踊りの継承、作品交流等)

重点研究主題

自ら考え、自らかかわり、表現する子どもを育てる
~国語科の「読むこと」の指導を通して~

愛宕小学校閉校

宮古市立愛宕小学校が2012年3月で76年の歴史に幕を降ろした。少子化による児童数の減少によるもので、地区民、卒業生、関係者らから惜しまれながらも終止符を打った。最後の卒業式は3月16日に行われ、6年生8人が最後の卒業生として卒業証書を受け取った。最後の番号は4303号で、在校生を含めるとこれまで同校で学んだ児童は4330人だった。閉校式典は3月18日に行われ、卒業生や地区民約300人が出席。最後の在校生35人も参加して、愛宕小学校の思い出に別れを告げた。児童会長の山本郁生くんは「愛宕小はひとつの家族のようだった。僕たちの思い出は色あせることなく、いつまでも生き続けていく。愛宕小の生徒であったことを誇りに思う」と式典でのあいさつを行った。

愛宕小学校の歴史

現在の愛宕小学校は昭和10年に創立しているが、その以前は多くの学校形態を変遷しながら現在に至っている歴史がある。現校舎がある場所は、もともとは明治15年(1882)に設置された郡立東閉伊病院だった。翌16年6月に、その病院をそっくり東閉伊高等小学校として転用し開校した。同22年に新築校舎が完成するが、その後同35年4月に今度は宮古女子尋常高等小学校として開校した。町民は「女子部」として略称して呼んでいた。同28年、現県立宮古水産高校の前身である水産補習学校がここに間借りし、同33年に藤原校舎に移転した。大正期になると児童数も増え校舎、校地とも狭くなり、水利もよくないので、西隣にあった裁判所が保久田に移転。高知拡張運動中の大正8年(1919)1月16日、女子部新校舎高等2年教室の掃除道具入れから出火。西南の強風で校舎も本照寺も焼失した。大正14年から宮古実家女学校もここの校舎に間借りした。同学校は昭和4年、八幡前に新築移転した。昭和時代になり昭和5年4月、宮古尋常高等小学校分教場が開設。学区は光岸地、東西旧館、下築地の尋常4年生以下、児童数266人。同10年に校舎が新築落成し、翌11年に愛宕尋常小学校として独立した。これが愛宕小学校の始まりである。

戦後の愛宕小学校

昭和19年に高等科が併設されたが、昭和22年の新制度で宮古市立愛宕小学校と改称された。同29年になると藤原小学校の独立のため愛宕小より児童293人が移籍した。これにより愛宕小学校児童は661人となった。同43年には白浜小学校が分校となり、5、6年生の児童が対岸の重茂半島白浜地区から船で通学した(白浜分校は平成13年に閉校)。同53年、鉄筋コンクリート33階建の校舎が新築落成し現在に至った。昭和60年に創立50周年記念式典を行い、平成7年には60周年夢灯り事業が開催され、同17年には70周年記念バザーなどが盛大に開催されている。平成23年の東日本大震災により学校は3ヶ月間避難所となった。その後校庭には仮設住宅が建てられ、現在に至っている。

沖縄県多良間村の小学校と姉妹校に

江戸時代(1859年)に宮古の船「善宝丸」が漂流し、沖縄・多良間島に漂着。乗組員が助けられたという史実が縁となり、昭和54年から愛宕小学校と沖縄県多良間村立多良間小学校が姉妹校となった。以後、相互訪問など行い、交流学習や作品交換、図書の寄贈など各種事業を行ってきた。同校には多良間館という教室があり、多良間島の交流の歴史や文化を紹介する資料、寄贈された貝殻、サンゴなどが展示されている。交流の歴史が詰まった貴重な資料室だ。なお、交流事業は、現在は宮古市の事業として行われている。 ==最後まで全力。がんばれ愛宕~東日本大震災~ 震災のあった3月11日、全校生徒35名は校庭に避難。校庭からは閉伊川を逆流してゆく漁船が確認された。愛宕小学校は高台にあり避難所ではあったが学校では生徒らをさらに高台にある本照寺へ誘導、津波到達後の午後4時には中里団地の旧愛宕中学校跡まで移動した。その後地域住民の配慮で中里団地集会所に移動し生徒らは震災の一夜を過ごした。愛宕小学校は震災当日から避難所として愛宕地区民の避難所として稼働、体育館や教室に被災した人たちが身を寄せた。震災から2ヵ月余りして校庭に仮設住宅の建設がはじまり、6月上旬に完成、入居がはじまった。その間、生徒らは特殊な環境のなかで遊び場を失いながらもみんなを励ます『あくしゅ大作戦』などを展開し被災者を勇気づけた。

僕たちの学校が避難所になった~最後の卒業式の呼びかけより~

年生終了間近、3月11日、東日本大震災が起こりました。
長くて強い揺れ。教室に緊張が走り、校庭に避難しました。
泣き出す下学年を前に私たちは、そっと声をかけるだけでした。
自分の家族のことを思いました。
怖くて、どうなるのかわからないまま時間が過ぎました。
避難所で友だちと先生方と過ごした夜。
地域の方の作ったおにぎりをいただきました。
翌朝、母がクタクタになって私を迎えに来てくれた時、
あふれる涙を止められませんでした。

校歌

愛宕小学校校歌
作詞 佐藤哲郎 作曲 竹田伊三郎
  1. 湾頭高き 学舎は
    昭和の御代(みよ)の つゆうけて
    愛宕の丘に いや堅く
    礎定め 栄えまさん
  2. 強く明るき 心もて
    やさしくいたわり 共々に
    自治にいそしむ 学舎に
    双葉しげりて 花匂う


基本データ

  • 住所:宮古市愛宕一丁目4-6
  • 電話:0193-62-2438
  • 学校創立:昭和11年4月1日
  • 児童数:60名(平成19年現在)
出典:宮古の教育・平成19年度版より

地図

https://goo.gl/maps/fU7p1

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