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愛宕小学校白浜分校

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目次

宮古最後の分校・愛宕小学校白浜分校閉校

愛宕小学校白浜分校は、宮古湾を隔てた対岸の白浜地区にある。その白浜分校は平成13年3月に閉校した。愛宕小学校白浜分校は宮古市の小中学校で残されていた最後の分校であり、白浜分校の閉校で宮古からすべての分校の灯が消えた。
白浜分校は現在は愛宕小学校の分校であるが、その歴史は独立校、あるいは磯鶏小学校分校時代などと、様々な変遷を繰り返してきた。歴史の始まりは明治20年(1887)で「私立白浜小学校」(磯鶏第14地割白浜)として創立している。これに関しての詳しい記録など残っていないが、私立とあることから寺小屋的な教育の場があったのではないかと推測される。その後、同25年10月20日、磯鶏尋常小学校白浜分教場となった。分教場時代は磯鶏小学校の傘下として昭和24年までの58年間続いた。そしてこの年の5月から地区民悲願の独立校、白浜小学校が誕生した。独立時代一時期100人近い児童数もあったが、次第に減少。昭和43年度には40人台となり、市教育委員会は独立校としては維持するのは困難と判断。同43年4月から愛宕小学校の分校となり、5、6年生を本校に通学させ、四年生までを分校の複式学級で扱ってきた。

船と歩んできた白浜の子どもたち・定期巡航船も幕を閉じる

愛宕小学校白浜分校の閉校に伴い、宮古湾を横断する定期巡航船も廃止となった。白浜地区の子供たちは5、6年生、あるいは中学生になると、愛宕小学校の本校、愛宕中学校に通うために定期巡航船を利用してきた。船は対岸の学校へ行くための交通手段としてかけがえのないものだった。
その定期巡航船の歴史は古く昭和2年から。閉伊川河口の築地と白浜桟橋を結んだ白浜丸が運航したのが始まりでこの船は愛宕小学校に通う生徒の他、郵便、新聞、物資なども運んだ。そして同時に船は地域住民の足であると同時に文化も運び続けた。しかし、経営難から平成2年に惜しまれつつ引退。その後岩手県北自動車の観光船が運航を引き継いできたが、これも廃校にともない長い歴史に終止符を打った。
白浜地区と閉伊川河口・築地までの片道は海路で3.4キロ。白浜の児童たちにとって思い出多き船であったことは間違いない。

白浜小学校校歌

作詞 佐藤 善一 作曲 千葉 了道

1.海に大きな陽が昇り

さやかに 朝が明けてくる
るりの入江にかげさすは
我等の母校 白浜小学校

2.明治の御代に開かれて

ひいじいさんも手にとった
小石も あらうこの庭で
今日は我等が遊ぶのだ

3.遠潮鳴りは われら呼び

鴎すいすい舞っている
いざや光の海さして
船出しようよ ともどもに
※独立校時代の白浜小学校の校歌・昭和25年制定

関連事項

地図

https://goo.gl/maps/P8xhB

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