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山田線

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目次

山田線と宮古駅

山田線は盛岡から宮古山田釜石を経て内陸部と沿岸部を結ぶ鉄道で、大正時代、原敬内閣により地方鉄道の建設が推進され、当初盛岡と山田町を結ぶ「山田線」として建設が開始され、昭和9年11月6日に盛岡-宮古間が開業、同14年に9月17日に釜石まで延長され全面開通した。
山田線は昭和30~40年代の高度成長時代には、宮古のラサ工業宮古精錬所、釜石の新日鉄釜石などの大規模な工場にとって、また、沿岸部の水産加工にとって産業経済を担う重要な路線であった。宮古駅には機関区をはじめ鉄道の諸機関が集まり、宮古港への貨物専用の臨港線ラサ工業専用線も擁していた。しかし時代とともに貨物需要が減り昭和61年に山田線の貨物輸送は廃止となった。 宮古駅の駅舎やホームなどは改修が加えられているが、基本レイアウトは昭和9年の開業時と変わらず、現在も随所に当時の面影を残しており、各ホームの柱や、1番線ホームから2番、3番ホームへ渡る跨線橋(こせんきょう)などは鉄骨などで補強されてはいるが当時の面影が残されている。また駅舎も駅裏側から見ると当時の佇まいを残していることがわかる。
山田線は北上山地を山越えする路線で区界峠を頂点に大志田駅、浅岸駅にスイッチバックがあった。これは急勾配の途中に駅を設け、列車の行き違いをするために配置されたもので山田線の名物でもあった。しかしこれもダイヤ改正、列車本数の激減から昭和57年に廃止された。

宮古駅を代表する急行・陸中号

現在山田線では宮古-盛岡を結ぶ快速リアスが一日三便走っている。この列車の名称は昭和57年11月まで宮古発で山田線を走っていた急行リアスだ。リアスの他にも宮古駅から乗車できた急行列車は、五葉、そとやま、よねしろ、そして最盛期にはグリーン車(一等車)も連結していた急行・みちのく、陸中などがあった。そんな急行列車の中で宮古駅を代表するのが急行・陸中だ。急行陸中が運転されたのは昭和36年(1961)で当初は宮古ー花巻間を準急として走り、花巻から東北本線を走る他の急行と連結して上野まで往復していた。その後昭和41年(1966)になると陸中は仙台~花巻~釜石~宮古~盛岡~大館~秋田を結ぶ仙台ー秋田間を走る急行列車となり、宮古からは、グリーン車を連結し宮古ー上野を結ぶ「急行・みちのく」が登場する。昭和57年(1982)東北新幹線が整備され在来線特急・急行列車の廃止や見直しの中で、急行陸中は新幹線駅である北上と宮古を結ぶ新幹線接続列車として存続運行される。この時点でそれまで走っていた急行列車、五葉、そとやま、よねしろは廃止となり、急行リアスのみが快速リアスとなって宮古-盛岡間を走った。その後昭和60年(1985)に新幹線駅として新花巻、水沢江刺が開業すると急行陸中は盛岡~花巻~釜石~宮古を往復することになるが、平成13年(2002)年12月、急行陸中は宮古-花巻間を結ぶ快速はまゆりと改名し、昭和36年から続いた急行陸中の名は時刻表から消えた。

常磐線経由で宮古-上野を結んだ臨時急行列車みやこ号

移動手段として鉄道が主だった昭和40年代、宮古から常磐線経由で上野へ直通する「みやこ号」という列車があった。この列車は夏と冬の帰省シーズンに運転された臨時列車で、当初6輌編成の寝台客車をディーゼル機関車が牽引し宮古~釜石~花巻の山田線、釜石線を走り花巻で東北本線の下り列車、急行・十和田に連結し花巻~仙台~岩沼から常磐線に入りいわき~水戸~我孫子~上野へと向かった。みやこ号に関しては夏冬の帰省ラッシュに対応した臨時列車だったため、当時の運行ダイヤ、列車編成、いつ頃まで運転されたなどの詳しい資料は見つからない。ただこの時代に臨時急行みやこ号を利用したという人たちの記憶によれば、当初は寝台車のみの編成だったが晩年は客車も連結したという。昭和40年代、みやこ号は夜行列車として一昼夜かけて宮古と上野を結んでいた長距離列車だったのである。

震災後復旧費は二百億を超えると試算される

改めて山田線宮古~釜石間の被災状況を見てみると、55キロの約三割にあたる17キロが被災した。宮古市管内では藤原、磯鶏地区での橋梁流出(第34閉伊川橋梁)、被災延長は2.5キロ。津軽石地区では線路が流出、被災延長は3キロだった。このほか、山田以南では、山田駅、織笠駅、大槌駅、鵜住居駅をはじめ多くの線路、橋梁が流失した。その現状復旧にはJRの試算では140億円がかかることになり、併せて沿線自治体の線路かさ上げなど復興まちづくり事業にかかる、かかり増し経費に約70億円、合計で210億円が必要とされた。 被災後、復旧に向けた取り組みとして3月18日から宮古~山田間に路線バスが運行。その後4月12日から山田~釜石間にも路線バスが運行を開始し、現在に至っている。 しかし、遅々として進まない状況の中、2014年1月31日に開かれた山田線復興調整会議でJRはこの路線を三陸鉄道へ譲渡する提案を行った。それによるよると、被災した線路や駅舎をJRが復旧させ、運行事業を三陸鉄道に、線路などの鉄道施設を三陸鉄道と沿線4市町にそれぞれ無償で移管するもの。運営形態は運行と施設保有を分ける上下分離方式となる。実現すれば、三陸鉄道が盛~久慈間で一本につながる南北線統一となり、運営が一体化されるが、実際に事業が移管されると、自治体は維持管理費などの負担が増えることになる。赤字補填終了後の運営の見通しも立てなければならず、地元自治体としても、そう簡単に合意するに至っていないのが実情だ。

岐路に立たされた山田線

震災から3年余。この間、ふるさとの鉄路は大きな明暗を分けた。全線復旧が見えた地区、対照的にバス転換を選択した地区、さらに復旧の青写真すら描けない地区と、このように分かれてしまった。もともと交通手段がなく、人口の流出が続く沿岸地域。そこに大きな震災が起きてしまった。公共交通としての鉄路は地方であればこそ大切なものでもあり、お年寄りなどの交通弱者をはじめ地元の高校生も鉄路の復旧を強く願っている。 しかし、年々減少する鉄路利用者。JR山田線の宮古釜石間の利用者数は、JR東日本が発足した1987年度は1日平均1719人だったが、震災直前の2010年度は693人と4割に減少。山田線全体(盛岡~釜石)では、JR東日本管内で最悪の岩泉線(今年4月廃線)に次いでワースト2位だった。 今、山田線も大きな岐路に立たされている。地域経済、観光における鉄道の役割とは何か。この地域の鉄道がどのような形であれ、再び一本で結ばれ、多くの旅人が訪れる日が来ることを願いたいものだ。


駅名

盛岡(もりおか) 上盛岡(かみもりおか) 山岸(やまぎし)
上米内(かみよない) 大志田(おおしだ) 浅岸(あさぎし)
区界(くざかい) 松草(まつくさ) 平津戸(ひらつと)
川内(かわうち) 箱石(はこいし) 陸中川井(りくちゅうかわい)
腹帯(はらたい) 茂市(もいち) 蟇目(ひきめ)
花原市(けばらいち) 千徳(せんとく) 宮古(みやこ)
磯鶏(そけい) 津軽石(つがるいし) 豊間根(とよまね)
陸中山田(りくちゅうやまだ) 織笠(おりかさ) 岩手船越(いわてふなこし)
浪板海岸(なみいたかいがん) 吉里吉里(きりきり) 大槌(おおつち)
鵜住居(うのすまい) 両石(りょういし) 釜石(かまいし)

関連事項

外部リンク

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