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宮古町

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目次

宮古のはじまり

沢田の宮古山常安寺、南西側墓所最上部の尾根の中腹に「町割石」と呼ばれる岩塊がある。この岩は元和元年(1615)南部藩主・南部利直が領地巡回の際宮古に立ち寄り、宮古の港を南部藩の御用港とすると同時に町割をした際、この岩の上から指揮をとり宮古市街の基礎となる本町を定めたという岩で、後世この石は町割石と呼ばれるようになった。その後この岩塊は江戸末期の享保9年(1724)宮古村の重左ェ門という人が願主となり庚申供養塔になっている。
現在、町割石は樹木と笹に覆われておりその上部から宮古市街を見渡すことはできないが、利直公がこの地を訪れた元和の頃は宮古市街から閉伊川まで一望できたと思われる。

山口川河口に拓けた本町通りが最初の宮古町

元和元年(1615)に南部藩主・利直が行った町割は本町のみが命名されただけだったが、その17年後の寛永9年(1632)、宮古代官所・代官の小本助兵衛により町割がなされ、新町、田町、横町、御水主(おかこ)町が命名された。その後貞享3年(1686)に御水主町は向町と改名されている。またこの頃、山口川閉伊川との中間にある現在の新川町付近に中瀬、蝦夷が住んだ舘があったという伝説から旧舘という地名が起こった。また、光岸地は当時鴻岸地と呼ばれる網置き場であり人家はなかった。閉伊川をはさんだ藤原は慶長の頃(1596~1614)には既に人家があり、船着き場、遊郭地として存在していた。
中世の時代、宮古町は形成されておらず、鎌倉時代初期に当地を支配したという閉伊頼基根城に築城した頃は宮古一帯は、ぬかるんだ湿地帯という意味の渋田の庄、黒田谷地、黒田村等と呼ばれていた。宮古という地名の起こりは伝説など諸説あるが、地方豪族の領地争いの時代を経て、南部氏がこの地を統治してから宮古の名が発生したと考えられる。
明治15年(1882)、山口川下流域を埋め立てることにより現在の築地が生まれ、同時に向町の一部を埋め立てることにより新川町が発生する。同35年(1902)には市区改正により黒田町が新たに発生する。この頃宮古町に隣接していたのは、南の磯鶏村、西の山口村千徳村、北は崎山村、鍬ヶ崎村だった。面積は231方里、戸数1652、人口は男4805、女4625(大正10年12月末現)で、構成は本町、新町、沢田、小沢、黒田町、田町、中瀬、新川町、片桁、下町、築地、光岸地、藤原であった。

維新とともに宮古町始動

安永9年(1780)の資料によると、宮古村159戸、黒田村157戸、鍬ヶ崎281戸を数えた。鍬浦地方は、暦応3年(1340)の板碑を見ても、すでに600余年の昔に、集落を形成していたことがわかる。安政年間には繁華な港町として栄えるが、慶長16年以来、宮古代官所治下となっており、これによって発展し明治維新を迎える。
明治期になると明治政府の廃藩置県によって宮古の行政区分も下記、表にあるように幾多の変遷があった。明治2年8月に江刺県が遠野町に置かれると、閉伊郡は江刺、気仙、和賀、二戸、鹿角の諸郡と共に、その管轄に属し、宮古村に県出張所が設けられた。一方、盛岡藩は盛岡県となり、岩手、稗貫、紫波、和賀(一部)の行政区となった。4年11月には江刺県を廃して盛岡県に合併されたので、閉伊郡もその管下に入り、同時に宮古村と黒田村を合併して宮古村となった。
翌5年1月に、盛岡県を岩手県と改称。宮古村に市庁が置かれた。県下21区に行政区分され、宮古は第18区長会所となった。8年3月になると、県下各郡村の大小区制を改めて23大区とし、更に213小区に分けた。当地方は第19区、第一小区となった。その時の小区は次の通りである。

  • 宮古村(一)鍬ヶ崎(二)崎山(三)山口(四)千徳、近内、根市、花原市(五)磯鶏、八木沢、小山田(六)津軽石、赤前、金浜、高浜(七)重茂、音部(八)豊間根、石峠、荒川(九)花輪、長沢(十)松山、老木、田鎖(十一)田代、田老(十二)

宮古の維新から現代までの行政区分

  • 1868(明治元年)陸中国松代藩閉伊郡宮古村
  • 1869(明治2年)江刺県閉伊郡宮古村
  • 1871(明治4年)盛岡県閉伊郡宮古村(宮古、黒田合村)
  • 1872(明治5年)岩手県宮古市庁宮古村
  • 1873(明治6年)岩手県第十九大区第一小区宮古村
  • 1879(明治12年)岩手県東閉伊郡宮古村
  • 1880(明治13年)岩手県東中北閉伊郡宮古村
  • 1890(明治23年)岩手県東中北閉伊郡宮古町
  • 1897(明治30年)岩手県下閉伊郡宮古町
  • 1924(大正13年)岩手県下閉伊郡宮古町(宮古、鍬ヶ崎合町)
  • 1926(大正15年)岩手県下閉伊市庁宮古町(郡役所廃止)
  • 1941(昭和16年)岩手県宮古市(山口、千徳、磯鶏合併)
  • 1955(昭和30年)岩手県宮古市(崎山、花輪、津軽石、重茂合併)
  • 2005(平成17年)岩手県宮古市(田老町、新里村合併)

幾多の変遷を経て 村から宮古町誕生へ

明治11年になると府県会制が施行されて、地方自治の緒についた。大小区制を廃し、郡区の編成を改めて、町村統括をし、郡を県が総括するようになった。閉伊郡は、西、南、東、中、北の五郡に分けて、各郡役所を置くに至った。当時の東、中、北三郡が、後の下閉伊郡に入るのである。 宮古は東閉伊郡となり、中閉伊郡川井小国門馬で、北閉伊郡小本田野畑普代岩泉小川大川となった。13年には東中北閉伊郡と称して、郡役所を宮古に置いた。21年には地方自治制が発布され、市町村制の確立は近代行政組織の基礎をなした。全国は3府43県となり、23年4月に、全国に町村制が実施されるに及んで、郡内の各村も適宜合併となった。町村制施行に当たって、合併の標準として三百戸乃至五百戸とされた。その当時の合併状況の戸数は次の通りであった。

  • 宮古町(宮古村)1081戸/5192人
  • 鍬ヶ崎町(浦鍬ヶ崎村)810戸/3635人
  • 山口村(山口、田代、近内三村)253戸/1682人
  • 千徳村(千徳、根市、花原市三村)219戸/1342人
  • 磯鶏村(小山田、八木沢、磯鶏、高浜、金浜五村)340戸/1983人
  • 崎山村(崎山、崎鍬ヶ崎二村)154戸/983人
  • 花輪村(花輪、長沢、老木、田鎖、松山五村)419戸/2690人
  • 津軽石村(津軽石、赤前二村)414戸/2701人
  • 重茂村(重茂、音部二村)223戸/1344人

この中で宮古と鍬ヶ崎が町制を、他の村は2~5村を合併して村制を施行した。
その後、明治30年4月に東中北閉伊郡を改めて、下閉伊郡と称し、郡長に太田時敏が選ばれた。またこの年第1回郡会議員選挙が行われて、宮古の堀田熊次郎、鍬ヶ崎の鈴木甚左衛門の2人が選出された。

宮古、鍬ヶ崎合併!新時代の町づくりへ

大正13年(1924)4月1日、宮古、鍬ヶ崎町を合併して、新宮古町が誕生した。
当時の関口松太郎宮古町長と、佐野圭介鍬ヶ崎町長は退任し、新宮古町長に中島源三郎の就任を見た。しかし、合併に至るまでは賛否両論にわき、鍬ヶ崎の漁民等の反対は猛烈で難航した。時代の機運は港湾の修築と各種施設による産業振興、自治体発展を期するため、両町の合併で地域拡大と財政力を固めることが必要であると同時に、当時、第二種重要港湾の指定獲得を目指して、釜石山田大船渡の諸港と猛運動が展開されたので、宮鍬合町はこの重大使命を握る鍵ともなった。
こうした情勢の中で、大正11年9月、鍬ヶ崎町議、中村喜助氏外11名から「鍬ヶ崎町、宮古町合併に関する意見書」が町会に出され、満場による可決となり、県知事に提出された。宮古町会も11月に可決して、県の諮問に答申した。鍬ヶ崎町会が新町に対し、実行を期する事項を列挙して、県に実現方を監督する要請を行ったものである。それらの覚書は、港の改良、水道敷設、鍬ヶ崎小学校の増改築、浄土ヶ浜に至る道路整備などであった。
当時の宮古町は、1620戸9193人、鍬ヶ崎町は922戸、5387人で合併によって戸数2542戸、人口14580人となり、行政区を宮古23区、鍬ヶ崎8区と設定した。合町後の宮古は発展の一途をたどり、中心街の拡大、閉伊川の改修、港湾の修築、山田線の開通、臨港線の敷設など躍進してゆく。

中心商店街は本町と片桁

昭和9年の宮古町の中心商店街は現在の高橋交差点を中心とした本町通りと、そこに交差する片桁と呼ばれる山口川沿いの通りだった。この通りには高橋をはじめ大小さまざまな橋がかけられており、両岸には近郷近在から集まった農家による露店、日用品などを路上販売する人々が集まった。その後、この通りは二度にわたる改修工事により山口川に蓋がされ広い道となり現在の中央通りとなってゆく。

西へと移動する商店街

人が集まる所に商売が発生する。これは昔からの世の常である。商店街はその時代、そこに住む人々の流れによって生まれては消えてゆくという隆盛と衰退を繰り返してきた。
宮古市の中心商店街として親しまれている末広町、大通は山田線開通に伴って新設された宮古駅を起点に新しく発生した比較的新しい町だ。昭和9年当時、現在の末広町、大通、栄町などは水田あるいは湿地帯であり、その中にポツンと宮古駅の駅舎が建設されたのである。
当初、商店街は開催日が指定された「市」という形で江戸時代から続く街道沿いに発生し、後に宮古代官所(現・宮古市分庁舎)があった本町を中心に毎日品物を扱う商家として広がっていった。また、三陸定期汽船による海路中心の交通手段しかなかった頃は鍬ヶ崎上町を中心に回船問屋、両替商等の商店街が発生し隆盛を極めていた。これが山田線という新しい鉄路開通によって西へと移動しながら変貌してゆくのである。

昭和9年、風俗あれこれ

昭和9年における宮古の歓楽街は江戸末期から明治を経て大正時代に栄華を極めたとされる鍬ヶ花柳界を中心とする鍬ヶ崎上町と、新開地として発展の槌音が響く宮古駅近くの末広町や喜久屋町の2区画があった。鍬ヶ崎は江戸初期に南部藩の商港として整備され、明治になり三陸定期汽船が寄港する宮古の玄関口となった。航路は南へ向かう釜石塩釜、東京航路、北へ向かう釧路函館(松前)等の定期・不定期航路が整備され多くの人々が鍬ヶ崎の港に立ち寄った歴史がある。また、江戸の時代から漁港、貿易港として稼働していたこともあり古くから遊郭や料理屋が軒を並べ特に現在の上町界隈は一種独特の廓文化が花開いた町であった。 一方宮古に花開いた歓楽街は鍬ヶ崎同様の料亭、料理屋に加え、当時の流行の最先端であった「カフェー」が列挙した。これは旧来の芸者、半玉を呼んでのお座敷形式の宴会に対して、女給と呼ばれるホステスを交えてボックス席で飲食したりダンスを踊ったりするという新しいシステムだった。これは芸者を呼ぶための煩雑な手続きや高額な料金もかからないため大衆はカフェーに集まった。
大正時代には芸妓数80名を数えた鍬ヶ崎遊興組合であったが昭和9年当時、芸者40名、半玉12名、遊女40名、貸座敷10軒があり芸者、半玉などのブロマイドや絵はがき等を作り旅行者に配るなどの宣伝活動にも力を入れていた。代表的料亭に「相馬屋」「旭屋」「柳川」「松の家」「福井亭」「開清庵」「石川亭」などがあった。宮古町の歓楽街には料亭「嘉久扇」「船越屋」「錦水」「新屋」「多美屋」、カフェーに「銀座会館」「赤玉」「キング」「スズラン」「青雲閣」「金の星」「キリン」「浦島」「エーワン」「祇園」「洋洋」などがあった。

昭和9年、発展する宮古町

宮古町、鍬ヶ崎町の合併問題は、港湾修復との関係もあり機運も熟し大正11年両町の議会を経て「合併異議なし」の意見書が県へ提出され、翌々年の大正13年4月1日をもって宮古町となった。これに伴い関口宮古町長、佐野鍬ヶ崎町長が辞任し新たに中島源三郎を町長とした。中島は鍬ヶ崎前須賀約8000坪の埋立工費を県に寄付、2年かがりで工事を終える。問題になっていた鍬ヶ崎角力浜埋立は町債3万円をもって約1500坪を埋め立てた。また築港工事としての閉伊川左岸埋立も行われ、将来は臨港線が開通するものとしている。

昭和9年、宮古の教育環境

昭和9年の宮古町の教育環境は国民教育機関として宮古小学校、鍬ヶ崎小学校の2校、補習教育機関として宮古商業専修校、鍬ヶ崎水産補習学校があった。宮古小学校は校舎の位置は変更されているが当時から現在の位置にあり、隣接して商業専修学校の校舎があった。両校の校長は石川耕一宮古小学校校長であった。鍬ヶ崎小学校はほぼ現在の位置と同位置に校舎があり、東海林堅吉鍬ヶ崎小学校校長が水産補習学校の校長も務めていた。
中等教育としては岩手県立宮古水産学校と岩手県立宮古高等女学校の2校があった。水産学校は現在の藤原小学校がある場所にあり、明治31年に郡立簡易水産学校として誕生し、同34年に県立となった。卒業生は昭和8年までに約600名を出し、県外からも入学志望がある当時全国的にも名の知れた有名校。昭和9年の校長は亀井顧一氏であった。
宮古高等女学校は現在の宮古一中の敷地内にあった。沿岸唯一の女学校として昭和4年8月に県立となった。昭和9年の校長は伊藤重蔵氏であった。ちなみに宮古高等女学校の初代校長は郷土教育会の重鎮であり日出島宮古層群から新種の化石を発見した八重樫七兵衛である。
戦時色が色濃く漂っていた昭和9年には特殊教育として、青年訓練所と六原青年道場分場海洋道場の2校があった。青年訓練所は宮古地区と鍬ヶ崎地区にあって、昭和9年の訓練生は145名であった。六原青年道場は、当時の石黒岩手県知事が「岩手の更正は青年建設から」と唱え昭和7年、盛岡に六原青年道場を開設、更に沿岸更正を唱え昭和8年、分場として海洋道場を県立水産学校内に設置したもの。教育内容は海洋開拓に信念と実力ある青年の養成であった。

宮古・鍬ヶ崎歴代町村長名

  • 宮古町(鍬ヶ崎合併前)
    • 初代 釜石謙二郎
    • 2代 工藤 吉郎
    • 3代 工藤 吉郎
    • 4代 甘南備正雄
    • 5代 坂平 祐
    • 6代 服部 保愛
    • 7代 関口松太郎
    • 8代 中島源三郎
    • 9代 中島源三郎
    • 10代 伊東 元介
    • 11代 松井 一男
    • 12代 菊池長右エ門
  • 鍬ヶ崎(宮古合併前)
    • 初代 村井儀七郎
    • 2代 山崎善四郎
    • 3代 中川 清祇
    • 4代 中村 喜助
    • 5代 吉田 禎蔵
    • 6代 佐々木松兵衛
    • 7代 佐野 圭助

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