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宮古海戦余話

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2014年10月29日 (水) 09:10時点における最新版

旧幕府軍による奇襲戦だった宮古海戦は、宮古港に停泊する新政府軍最新鋭艦奪取作戦であった。結果的には旧幕府軍の敗走に終わったが、この両軍による戦いは幕末から明治初期の宮古、下閉伊を震撼させ多くの逸話を残している。後日に追撃するため入港した官艦に水先案内として乗り組んだ者、見聞のため宮古を訪れその賑わいに新たな商売の可能性を見つけた者、羅賀石浜に追い込まれ上陸した幕軍兵士と遭遇した者などだ。また羅賀石浜に座礁した幕艦・高雄の装備品だったとされる砂浜に埋められた金の茶釜、橋の擬宝珠になった大砲の弾など多くの逸話が残され、その地に立つと今でも往時を偲ぶことができる。

目次

[編集] 新政府軍旗艦・甲鉄はアメリカ南北戦争のため造船された軍艦

甲鉄は「ストーンウォール・ジャクソン」と呼ばれ、アメリカ南北戦争(1861~1865)の時、南軍がフランスのボルドーマルメン造船所に発注した。1358トン、1200馬力、全長65メートル、前部に300ポンド砲1門、後部に70ポンド砲2門と64ポンド砲6門を備え、1インチ6連装のガットリング機関銃を装備した鉄製の艦船だった。アメリカはこの船を徳川幕府に売却し、慶応4年4月に江戸に入港した。しかし、大政奉還後だったので、アメリカは幕府にも新政府へも引き渡しを拒否したが、奥羽戦争での勝利を見て明治2年2月3日に新政府に50万両で引き渡し、新政府はこれを甲鉄と命名した。

[編集] 青い目の旧幕府軍・宮古海戦にも参加した外国人

宮古海戦にはコラシュ、ニコール、クラトウという3人のフランス人が戦艦に乗り込んでいる。なぜ青い目のフランス人たちが幕府とともに戦ったのだろうか。慶応3年(1867)1月、幕府の養成でフランス軍事顧問団が幕府軍事洋式訓練のため一行15人が来日した。そのうち10名ほどが崩壊寸前の幕府軍のため身を緒して戦う。それぞれに理由はあったが榎本と行動を共にした。宮古海戦では回天にニーコール、高雄にコラシュ、蟠竜にクラトウが乗船した。奇襲攻撃の合図「アポルタージュ」はフランス語で接舷斬り込みのことを言う。ニコールは負傷、コラシュは捕虜、クラトウは無傷だったが予想以上に最前線で戦っている。

[編集] 海戦前夜・鍬ヶ崎と新政府軍

明治2年3月21日、追討のため五稜郭討伐へ向かう「春日」「甲鉄」を含め新政府軍軍艦4隻、輸送船4隻の計8隻が宮古港に補給のために立ち寄り、鍬ヶ崎の紅燈にも緊迫した空気が流れた。
実際、宮古には前年の10月に旧幕府軍の軍艦が「仙台ヨリ北辺石炭アラズ、故ニ薪ヲ之ニ代」という情報から補給のため立ち寄っており、両軍とも同じような海図や航海書を使っていたと思われる。 新政府軍補給寄港では北へ向かう陸兵も宮古・下閉伊を通過したことから周辺の村々は騒然とした。この頃の宮古代官所管内鍬ヶ崎十分役所には給人50人、宮古代官所には給人200人と記録されるが、ほとんどが戦力にならない農民兵であった。
寄港した新政府軍は薪材、水、米、塩を補給し、休養しながらも前須賀、角力浜で射撃の的に榎本武揚の似顔絵を使い訓練を行った。本陣となったのは当時鍬ヶ崎一の料理屋であった和泉屋(豊島氏・現在の七滝湯付近)で、その他は大阪屋(鈴木氏・上町菊屋薬店付近)、奥州屋(早野氏・上町)、上総屋(上町)、相模屋(上町)、太郎兵衛屋(鈴木氏・上町)、源兵衛屋(小島氏・下町)などの宿屋、廻船問屋などに分宿していた。

[編集] 官艦・朝陽の水先案内人として宮古港から乗船し箱舘戦争に参戦

宮古海戦の後、敗走する旧幕府軍を追走する新政府軍軍艦「朝陽」に水先案内人として宮古から乗り組んだのが宮古・光岸地の吉田茂八だ。茂八は通称茂七とも呼ばれ天保1年(1830)に宮古に生まれ39歳の時に箱舘戦争に参戦した。当時宮古から北、尻尾崎までは難所が続くためこの周知に詳しい茂八に朝陽艦長の中牟田倉之助より航海長として乗船が命じられたという。
朝陽をはじめ官軍の軍艦は無事に箱舘へ入港したが、朝陽は5月11日の箱舘戦争で蟠竜(甲鉄奪取作戦艦)の砲撃で撃沈した。撃沈する朝陽から茂八は艦長中牟田倉之助を救助し、後に恩賞として太刀、陣羽織、陣笠、さらに「蝦夷闔境輿地全図(えぞこうきょうよちぜんず)」を賜っている。しかしその後、茂八の消息は途絶えたままとなり、茂八が行方不明のまま葬儀が営まれた「血脈」が残るのみとなった。
茂八が賜った恩賞は現在鴨崎町の吉田家に残されるが、刀剣や羽織などは行方知れずとなり唯一「蝦夷闔境輿地全図」と茂八が明治新政府に提出した陳情書書類が残るのみだ。地図は嘉永7年(1854)、江戸日本橋の播磨屋勝五郎が発行しており、美濃判の上質和紙9枚をつなぎ合わせたもので、90×115センチの木版5色刷りの大地図だ。広げてみると千島列島などが日本古来の国土として位置づけられており貴重なものだ。

[編集] 宮古海戦見聞のため山田から宮古へ

大通りの山田屋旅館の創始者は山田の佐々木権蔵という人で、明治初年、幕軍・官軍の戦である宮古海戦を見聞するため山田から来宮したところ、当時の宮古の賑わいに感銘。この地で新たな商売の可能性があると決断。後の下閉伊郡役所(現・市役所分庁舎)前付近に宿屋を開業、屋号には自分が生まれ育った「山田」を冠にして「山田屋旅館」としたという。後に太平洋戦争中に強制疎開のため大通りに転居し現在に至る。る。この逸話は山田屋旅館大広間の額に「幣館の歩み」として謹書されている。

[編集] 羅賀沖で焼沈。旧幕府軍大型戦艦・高雄

新政府軍の旗艦「甲鉄」を奪取する作戦のため「回天」「蟠竜」とともに箱舘を出航した「高雄」は箱舘南下の際時化に遭いエンジンを破損、天候回復後たどり着いた山田湾で修理を施したが速力が上がらす「甲鉄」奪取の作戦に参加せずに箱舘へ帰還するはずだったが、奇襲作戦に失敗して遁走する「回天」を追ってきた新政府軍軍艦「春日」他3隻に追いつかれ田野畑村羅賀石浜に座礁、乗組員たちは上陸して遁走した。
高雄は別名・第二回天とも呼ばれ、全長は40メートル、幅は7メートル、大砲5門2本マストの蒸気スクリュー船で、幕末の慶応4年(1868)に秋田藩がアメリカのブレーキー商会から6万両で購入した大型軍艦だ。
当時高雄と上陸遁走する旧幕府軍兵士へ向けて新政府軍軍艦から轟音とともに砲撃が加えられ羅賀の人々は山へ逃げたという。自ら船に火を放ち山へと逃げた旧幕府軍兵士たちは後日捕らえられ、野田代官所経由で盛岡藩へ送られたという。
現在、羅賀にあるホテル羅賀荘前には羅賀での海戦の様子を刻んだ石碑があり往時を偲ぶことができる。また、石碑後方には海から引き揚げたという巨大な錨がある。錨は4本のツメがある旧式の物で推定300トンクラスの船の錨だったと考えられている。明治から現在まで羅賀で沈んだ大型船舶は高雄以外になく、この錨が高雄のものである可能性は大きいという。しかし確実な証拠はなく断定はされていない。
高雄は座礁焼沈こそしたがその巨体を昭和のはじめまで羅賀石浜に残骸を残していたが、太平洋戦争時に金属部分の殆どを供出し、現在石浜には残骸は残っていない。

[編集] 羅賀湾石浜で新政府軍の「高雄」追撃に遭遇した漁師・広内長七談

広内長七は安政1年(1854)生まれで昭和16年に亡くなった羅賀生まれの漁師だ。明治2年(1869)、14歳の時に旧幕府軍軍艦「高雄」を新政府軍軍艦「春日」他3艦が追撃する羅賀石浜戦を目撃した。長七の話を聞き取ったのは大沢雄三郎という羅賀の郷土史家だ。(以下長七談を要約)
明治2年旧3月25日3隻の船が羅賀に向かって進んだ。先頭の船(高雄)は湾内に入ってから急に方向を変え、石浜に乗り上げた。船からは赤毛布を着た者たちがどんどん上陸し後から追ってきた船は大砲を撃ちだした。爆音とともに飛んで行く砲弾が見え岩山に当たると岩が落ち海に落ちると巨大な波柱となった。
上陸した者たちが絶壁を登る様子が見え、その間火薬の発火する爆音が何度か聞こえた。脱走兵は皆一様に北へ向かって逃げた。小川村袰綿出身と普代村黒崎出身の2人が漁に出でおり捕り押さえられ、高雄乗組員が船を捨てて逃げる際に金の茶釜を石浜に埋めたという噂を聞いた。石浜の戦闘で旧幕府軍のフランス人が応戦していた。また、幕軍の老兵が戦死し、後にその亡骸は石浜に埋葬され墓碑が建った。
羅賀戦当日、羅賀弁天定置網では定置網を固定する石を積み込む作業中だった。長七ら定置網の若衆たちがダンベ(網起こしの船)に石を積んで漕ぎ出すと沖で漁船から合図があり「引き返せ」叫ぶので待って様子を聞くと羅賀での海戦を知らされた。長七らは船を陸に戻し羅賀へ向かうと、途中山道で脱走兵と遭遇「ここを通ったことは官軍に知らせるな」と脅され、道を大きく迂回北山海岸を回って羅賀弁天定置番屋へ戻った。
戦闘後、羅賀を含め周辺集落の人々は撃沈された高雄の装備品などを拾い集めたという。しかし後日役人が乗り込み、高雄から取ったものは強制的に没収されたという。遺物は後に大砲4個が宮古橋の擬宝珠に、黒金の大砲は大杉神社に設置された。
高雄乗り組みの鍛冶職人(刀鍛冶)は当地に定住、85歳で没した。この他にも潜伏してそのまま当地に留まった者は多いという。金の茶釜の真意は不明で幾人もが伝説を頼りに石浜を掘ったが見つかっていない。戦場となった石浜は後年道路工事のため岩石が投下されている。大正期に潜水夫を使って沈没船の調査が行われ、揚げられるものはほとんど引き揚げ、遺物は残っていないとされる。

出典:岩手県沿岸史談会『史潮』第3号・昭和46年刊より

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