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宮古海戦にかかわる幕末維新の雄

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宮古海戦や箱館海戦史に名を残した海軍兵士の多くは、日本海軍発祥の地、長崎海軍伝習所(安政2年1855開所)出身や、そのゆかりの士たちが敵、味方に別れて外国製の艦船で戦った。長崎海軍伝習所は学課が組織的で蒸気船による実習があり、従来日本になかった三角法、対数計算、物理、天文天測、地理、測量、砲術、航海術などが行われた。ここから多くの逸材が生まれ、それら人物から薫陶を受けたのが東郷平八郎や、甲賀源吾などであった。

目次

官軍の一士官として参戦した後の名将・東郷平八郎

日露戦争で連合艦隊司令長官となり、バルチック艦隊を日本海に撃沈した東郷平八郎は「アドミラル東郷」として世界に知れ渡った人物だ。弘化4年(1847)鹿児島に生まれ、文久3年(1863)に初陣の薩英戦争に参戦。薩摩艦船春日の三等士官を経て、英国留学生となり提督ネルソンの偉業を学んできた。
 宮古海戦では新政府の「春日」の乗組員で左舷一番砲担当士官兼射士だった。この戦いが後の日本海海戦の「此一戦」(明治38年5月27日)に生かされたともいう。市内光岸地の大杉神社境内にある「宮古港戦蹟碑」は大正6年3月に造立されたが、この額字が東郷から贈られた。

後の気象台長として宮古に関わりがある・荒井郁之介

荒井郁之助は天保7年(1836)山梨県に生まれた。安政4年(1857)21歳の時、軍艦操練所で航海術を修めた。明治2年(1869)には箱館政府の海軍奉行となり、宮古海戦では総指揮者となった。宮古海戦の司令官だった荒井郁之助(1836~1909)は、江戸湯島で幕府代官荒井清兵衛の子として生まれ、幼名はを幾之助。昌平黌(現在の東大の前身)に学び蘭学・洋算を学び、武技に優れたといわれる。幕末の動乱期には軍艦操練所に入り、航海術を学び、微積分の独習もしたといわれる。慶應3年(1868)31歳の若さで海軍奉行となって幕府海軍を統率した。その才能は勝海舟からも高く評価されていることが海舟の日記からもうかがえる。しかし、彼は勝海舟の制止も聞かずに明治元年(1868)8月、榎本武揚らとともに艦隊を率いて北海道に渡った。函館に新政府を開いて、海軍奉行として宮古海戦や函館戦争で勇ましく戦うことになる。尊王、佐幕、攘夷、開国と国論が揺れ動く中にあって、江戸や京都の間を慌ただしく往復する将軍や幕府高官を運ぶ船の頭領として、この若い有能な彼は体制の側から時代の流れを見て来た。何が彼を北海道へ駆り立てたのかは、わからない。
 宮古海戦で敗戦し、明治2年(1869)5月、函館戦争終結で荒井は五稜郭で降伏し投獄された。牢獄は現在の東京、気象ビルのすぐ近くにあった。明治5年(1872)1月に出獄。近代化を急ぐ明治政府は、彼らの才能を必要とし、榎本武揚ら共に明治政府に勤めるのである。  彼らが死刑を免れた背景には、当時の官軍参謀で、後に北海道・樺太の開拓長官を経て、農相、逓相など歴任した薩摩の人、黒田清隆の熱心な助命運動によるものであった。幕末の動乱期に蘭学や西洋数学を学ぶ間に、薩摩や長州の俊才たちとの交流もあり、敵味方に分かれても、どこかにつながりがあったのかも知れない。

出獄した荒井郁之助は、黒田清隆が作った開拓使仮学校の校長となった。この学校は後に札幌農学校となり、現在の北海道大学へと連なる。その後、内務省測量課長、気象課長を経て、明治23年(1890)に中央気象台の管制ができると初代の気象台長となった。宮古測候所は明治16年(1883)に開設された歴史の古い測候所である。創設当時の責任者だった荒井には、宮古は生涯忘れられない土地であったに違いない。測候所建設地の鏡岩(現在の漁協ビルのある場所)は、宮古港南角の南部藩砲台場で宮古海戦時には回天を狙った場所でもあった。函館脱走時と奇襲作戦で攻め込んだ宮古の地、この奇しき因縁は何を物語るものだろう。

荒井郁之助が特に気象事業に力を入れたのは幕府海軍を指揮していた時、鹿島灘の暴風雨、北海道の江差沖で旗艦開陽を沈没させた冬の嵐、そして宮古海戦で味方の艦隊をばらばらにさせて不利にした時化などの経験から、気象事業の重要性を強く認識したためであったと思われる。
「二十日黎明・風・漸く止みて、波高し」ー。荒井は宮古海戦前の天候をそのように記している。
荒井は退官後は榎本らと浦賀ドックを設立。明治42年(1909)に72歳で亡くなった。荒井の四男で洋画家の荒井睦男は、父奮戦の地宮古港を昭和の初めに訪ね、宮古海戦の絵を描いた。絵は靖国神社の海軍館に飾られたほか、宮古市にも寄贈されたというが、残念ながらこの絵は焼失してしまったという。

突撃艦回天で切り込んだ新撰組の名将・土方歳三

土方歳三は天保6年に武蔵国多摩郡石田村(現東京・日野市)に生まれた。新選組隊長の近藤勇と同郷で、文久3年(1863)に京都壬生で新選組を結成し副長となり討幕運動の警戒にあたった。鳥羽伏見で敗戦、仙台で榎本武揚と合流し、箱館にこもり陸軍奉行並となる。宮古には箱館脱走北行と宮古海戦の2度足を運んでいる。宮古海戦では回天に乗り組み戦ったとされ、宮古海戦敗戦後からわずか50日足らずの5月11日、箱館戦争で銃弾を浴びて35歳の生涯を閉じた。

回天艦長として宮古海戦で散った・甲賀源吾

甲賀源吾は天保10年(1839)静岡掛川藩士甲賀秀孝の四男に生まれた。6歳で「始読書」、8歳で「始学書」を学び、17歳の時、江戸でオランダ語を習い海軍を志し、矢田堀景蔵、荒井郁之助から高等数学、気象、航海術を学んだ。矢田堀と長崎遊学のあと安政6年(1859)21歳で幕府海軍に出仕。慶応3年海軍伝習所創設とともに生徒取締役となった。明治元年軍艦頭並に任命され、同2年運命の回天艦長として、宮古海戦で31歳の生涯を終えた。

旧幕府海軍であり箱舘政府の新総裁となる・榎本武揚

榎本武揚こと釜次郎は天保7年(1836)江戸下谷御徒町に生まれた。幼少の頃から昌平坂学問所で儒学、漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学んだ。19歳で箱館奉行の従者として箱館に赴き樺太探検に参加した。安政3年(1856)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所。蘭学、航海術、化学など学んだ。文久2年(1862)から慶応3年(1867)までオランダに留学。国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び完成した開陽丸で帰国。慶応4年(1868)に江戸幕府の海軍副総裁に就任した。戊辰戦争では幕軍として敗走し蝦夷政府を設立し総裁となった。敗戦後は投獄された後、新政府に登用された。海軍中将、逓信、外務、文部、農商務大臣など数々の要職を歴任した。

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