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宮古の市場変遷

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 篠田町の市場は宮古魚菜市場として順調にスタートしたが、昭和38年頃から新たな新価格帯で新たな販売形態をもつスーパーマーケットの台頭、食品衛生法の改定、地主からの返還要請などで昭和43年緑ヶ丘へと移転した。移転した宮古魚菜市場は平成7年、新たな店舗として隣接するスーパーマーケット跡地へ移転、旧施設は撤去し新店舗の駐車場として整備し現在に至る。
 
 篠田町の市場は宮古魚菜市場として順調にスタートしたが、昭和38年頃から新たな新価格帯で新たな販売形態をもつスーパーマーケットの台頭、食品衛生法の改定、地主からの返還要請などで昭和43年緑ヶ丘へと移転した。移転した宮古魚菜市場は平成7年、新たな店舗として隣接するスーパーマーケット跡地へ移転、旧施設は撤去し新店舗の駐車場として整備し現在に至る。
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2014年10月29日 (水) 09:35時点における最新版

[編集] 戦後、片桁から田町、そして大通りへ移転。その後完全な上屋をもつ集合店舗として緑ヶ丘に開店する。

 明治から昭和にかけて宮古のまちの様々な辻で土間売り、戸板商売と呼ばれる簡単な露店が発達した。これらは藩政時代から続いた決められた日にちに市を立てたものだった。これらの露店が発生した場所は、当初本町界隈であったがのちに黒田町付近に移動した。新町から黒田町を含む現在の通りは藩政時代を経て明治大正、昭和初期まで市の立った場所と考えられる。戦前は幾久屋町通りと現在の公衆トイレのある交差点はかつての産業であった繭や馬、牛の競りが行われた場所であり片桁(かたげた)または中瀬(なかせ)と呼ばれる露店の繁華街であった。 戦後、近隣の農家や魚家、そして戦地からの引揚者などが山口川の両岸である片桁や中瀬で市を立てたがこれらは昭和28年以降、山口川の蓋かけ工事により新しく川の上に中央通が発生すると自動車通行の妨げとなることから露店が道路に店舗を出すのが困難になり山口川両岸に発達した市はしだいに衰退し、田町へと移動してゆく。そこで露店を出していた人々は組合形式の共同体を作り田町に田町魚商人組合を結成、後には田町魚商組合と改め道路使用許可を得て営業を続けた。しかし、組合により区画は整理されたものも露店であり風雨による田町の道路事情、衛生面などで昭和34年、田町の舗装化と同時に組合は市の移転を強いられる。翌年の昭和35年、組合は田町での市の経営を諦め、篠田町(大通り)の私有地に仮設市場を建設、この集合店舗が現在の宮古魚菜市場の前身となった。

 篠田町に開設された市は、それまでの道路沿いに露店を出すものではなく、一定の敷地内に各店舗が集まったもので、当時の組合員数29名、敷地100・5坪でスタートした。場所は現在の八幡沖踏切から東海自動車付近にある旧篠田駐車場にあたる場所だ。当初の店舗内訳は鮮魚店14、野菜青果店12、りんご専門店1、雑穀惣菜販売4、衣料品販売1、日用品販売1、乾物販売2、生花販売1、一般食品販売1の41店舗だった。また、盆正月には特別な企画で露店が増え、現在も行われている年末恒例の神棚に飾るお飾り市などはこの頃から存在している。こうして片桁や中瀬にムシロや戸板を並べていた市は組合形式の集合店舗へと変化してゆく。また、片桁、中瀬で営業していた露店のすべてが新しい組合へ参加したわけではなく、一部は別の組合形式で戦後の宮古の消費を担った駅前マーケットなどの組合へ参加する露店もあったようだ。

 篠田町の市場は宮古魚菜市場として順調にスタートしたが、昭和38年頃から新たな新価格帯で新たな販売形態をもつスーパーマーケットの台頭、食品衛生法の改定、地主からの返還要請などで昭和43年緑ヶ丘へと移転した。移転した宮古魚菜市場は平成7年、新たな店舗として隣接するスーパーマーケット跡地へ移転、旧施設は撤去し新店舗の駐車場として整備し現在に至る。

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