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宮古のまちの移り変わり

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目次

発祥の地

宮古で最古の土器は、約8,500年前のものが津軽石の下根井沢川遺跡から出土している。宮古の発祥の地は、舒明13年(641)に今の横山八幡宮の麓に開けた「横山の里」と伝えられている。建久2年(1191)には、源為朝の三男・閉伊頼基がこの地を支配したが、13代親光の時に南部氏に滅ぼされ、南部氏の支配下になった。その頃、勢力を強めた千徳の土岐千徳氏は、町(今の本町・新町など)を開き、5代善勝の時には閉伊48舘の旗頭として君臨したが、やはり南部氏に討たれている。天文年間(1532~1554)には、今の小沢、横町が「黒田谷地」と呼ばれており、津軽石・花輪・松山・金浜・赤前・田代・山口・近内などには、それぞれ豪族が舘を構えて、ほぼ今の市域の集落拠点に似た村落が形成されていた。

【参考資料】宮古のあゆみ:宮古市(昭和49年3月)

町の発生

慶長16年(1611)の大津波は、宮古村と黒田村のほとんどを流失させた。 元和元年(1615)に、津波巡視に訪れた南部27代藩主利直は、町割の基礎として本町を設定し、藩港として宮古港の開港を進めた。 寛永9年(1632)には、郡代小本正吉が町割をして、今の横町・新町・田町・向町を定めた。 元禄5年(1692)の黒田・宮古御町屋舗表口改帳には、本町、横町、荒町、田町、御水主(おかこ)町の記述がみられる。

【参考資料】宮古のあゆみ:宮古市(昭和49年3月)

町村制の施行

明治4年(1871)11月に、宮古村と黒田村が合併し宮古村になった。明治15年(1882)には、民営による閉伊川左岸の埋め立てが完成し、向町裏から光岸地まで市街地が拡張されることになった。また、同年に宮古村と鍬ヶ崎村の境の切通しが完成し、両村の交流が進むようになった。明治22年(1889)4月に、市町村制が施行され、宮古町鍬ヶ崎町山口村(山口・近内・田代)、磯鶏村(磯鶏・小山田・八木沢・高浜・金浜)、千徳村(千徳・根市・花原市)、崎山村(崎山・崎鍬ヶ崎)、津軽石村(津軽石・赤前)、重茂村(重茂・音部)、花輪村(花輪・田鎖・松山・長沢・老木)がそれぞれ発足しています。大正13年(1924)4月には、宮古町鍬ヶ崎町が合併し宮古町として発足している。

【参考資料】宮古のあゆみ:宮古市(昭和49年3月)


市制の施行

宮古は、昭和2年(1927)の宮古港の第二種重要港湾の指定、昭和9年(1934)の山田線盛岡・宮古間の開通と交通網の整備が進み、さらに昭和14年(1939)にはラサ工業㈱宮古工場、大同製鋼㈱宮古工場などが操業を始め、産業の近代化と都市化が進む。こうしたことから、昭和16年(1941)2月に宮古町、山口村、磯鶏村、千徳村の1町3村をもって宮古市の市制が施行された。昭和30年(1955)4月には崎山村、津軽石村、重茂村、花輪村の4村と合併し、三陸沿岸の中核都市として発展してきた。そして、平成17年6月に田老町新里村と合併し、現在の宮古市が形成された。

【参考資料】宮古のあゆみ:宮古市(昭和49年3月)

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これまでに合併した村や町

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