大村治五平翁終焉之地(花原市)
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2014年10月23日 (木) 15:22時点における最新版
[編集] 金田一京助謹書の顕彰碑
文化4年(1807)に起こったエトロフ事件は日本人と白人が戦った初めての戦だった。その時エトロフのジャナという所で戦っていた南部藩士治五平は前日の戦いで足に被弾していたが銃で武装した大勢のロシア兵相手に抜刀し「日本」と叫び単身突入。捕虜となったが帰藩後江戸へ上り北方におけるロシアの軍備と侵略を報告。その後隠居を言い渡され花原市の華厳院で生涯を終えた。隠居後記した「私残記」はエトロフ事件の解明に役立ったという。