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吉川保正

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  • きっかわやすまさ【分類・彫刻家】
  • 明治~昭和:明治26年~昭和59年(1893~1984)

数々のブロンズ像を郷土に残した重茂出身の彫刻家

陸中海岸のシンボル像「うみねこと乙女」藩政時代の三閉伊一揆の指導者田野畑太助と切牛弥五兵衛の一揆の像(田野畑村民俗資料館前広場)、重茂の平和公園にある「平和観音」などのブロンズ像を残したのが重茂出身の彫刻家・吉川保正だ。
吉川は明治26年(1893)6月27日に中世の時代、豊間根から重茂に移り住んだと伝えられる荒川氏の家系である重茂里地区の吉川家の分家に生まれた。幼少の頃から絵が好きで、明治末期現在の盛岡一高の前身である盛岡中学へ進み後に、大正11年(1922)東京美術学校彫刻科を卒業した。卒業に際して制作した「自刻像」は文部省買い上げ第一席となりその実力を世に認められた。
戦後の動乱記と物資不足の時代を経て、昭和23(1948)年、重要美術品等調査員、県文化財専門委員、岩手短大教授、博物館専門委員などを歴任しながら多くの彫刻をはじめ屏風絵、襖絵などの絵画を残した。昭和30年(1955)頃から精力的にブロンズ像を制作した保正は、同54年(1979)、前段で紹介した重茂追切地区にある「うみねこと乙女」を制作。像はうみねことたわむれる少女をモチーフにしたもので、5年後の同59(1984)年2月4日に世を去った保正の遺作でもある。
チリ地震津波により根こそぎ建物を失った吉川家が新築された時、吉川保正は「新築祝いに絵を描いてやろう」と持ちかけ、昭和34(1959)年の夏に保正は約一ヵ月間重茂に滞在し周辺をデッサンして歩いた。そして保正は昼中海を散歩しながらイメージを膨らませ7枚の襖に去り行く夏の昼下がりを思わせる重茂漁港を描いた。絵は日本画の顔料が使われ磯舟で働く浜の人々、海水浴をする少年達などを独特のタッチで描き、防波堤の突端にはデッサンする保正自身の姿がある。
描かれた当時の重茂漁港は近年の漁港整備でその面影は変わったが、絵からは今も潮の香りが漂い、晩年盛岡で暮らしながらも故郷を忘れなかった保正の世界が伝わってくる。

重茂里漁港を描いた吉川保正の襖絵

 重茂半島の漁村、里地区の吉川和秀さん(72)宅に、8面の襖に描かれた日本画がある。去り行く夏の昼下がりを思わせる港の風景を描いたもので、古きよき時代の情緒が漂う。作者は岩手彫刻界の重鎮であった重茂出身の吉川保正(18931~1984)が描いたものである。吉川保正は宮古地域においては陸中海岸のシンボル像「うみねこと乙女」や藩政時代の三閉伊一揆の「一揆の像」、重茂平和公園にある「平和観音」など手掛けているほか、県内各地には数々のブロンズ像が残されている。彫刻家であると同時に絵画にも造形が深かった。重茂に生まれた保正は盛岡中学、東京美術学校を経て中国の美術専門校に教授として赴任。帰国後、県重要美術品等調査委員、県文化財専門委員など歴任し、美の発掘者として活躍した。  この絵を保有する和秀さんは保正の遠縁にあたる。和秀氏の先代が自宅を建て替えた記念にと贈られたもので、昭和33年の秋に制作されたものだ。この年の夏、保正は約1ヶ月重茂に滞在した。日中は海岸を散歩しながらデッサンを重ね、8面の襖に見事な絵を仕上げた。和秀さんは「初めは一枚ずつ描いていたので、どんな絵になるか分からなかった。8枚並べてようやくその全体が見ることが出来た」と、当時を振り返る。絵は日本画の顔料が使われ、里の漁港の磯舟で働く浜の人々、海水浴をする子どもたちなどを独特のタッチで描き、防波堤の突端にはデッサンする保正自身の姿がある。現在の漁港周辺の風景はガラリと変わったが、潮の香りが漂う昭和の風景がいつまでのこの絵の中に残されている。

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